その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。(16節)
今日の福音朗読箇所は15節を繋ぎとして大きく次の二つに分けることが出来ます。(『主日の福音-C年』)
前半(10~14節) 人々の求道心
繋ぎ(15節)
後半(16~17節) 洗礼者ヨハネの否定
まず、前半ですが、洗礼者ヨハネの説教(7~9節)を聞いて求道心をかきたてられた群衆はヨハネに
では、わたしたちはどうすればよいのですか(10節)
と尋ねます。
それに対する彼の答えはしごく簡単なものでした。
要するに、
「施し」をしなさい
と言うのです。
この答えは群衆にとっては拍子抜けするようなものだったに違いありません。
なぜなら「施し」はイスラエルの民にとっては基本中の基本ともいえる徳目でした。
個人個人がどこまで忠実に守っていたかは別として余りに当たり前、日常的なことだったからです。
ただし、ヨハネの簡単すぎるとも思える忠告は一般群衆に対するものであって徴税人と兵士に対しては彼は厳しい言葉をなげかけています。
それというのも徴税人と兵士は当時のユダヤ社会においてはローマ帝国の手先と見做され蛇蝎のごとく嫌われる存在でした。
徴税人に対して
規定以上のものは取り立てるな(12節)
と言います。
徴税人は文字通り税の徴収を仕事とする人々でしたが、容易に想像がつくように課せられるべき税額よりも多く徴収し懐に入れる者が後を絶ちませんでした。
また、兵士たちに対しては
だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったり、自分の給料で満足せよ(14節)
と言います。
ここでの兵士はローマ人ではなく、ローマ軍の兵士として従軍していたユダヤ人のことを指しています。
ユダヤ人からすれば裏切者中の裏切者ということになります。
また現代の開発途上国で警察官や兵士が自分の立場を利用して一般市民から金品を強奪することしばしばあるようですが、当時も横行していたのでしょう。
ここで、なぜ兵士たちが持ち場を離れて洗礼者ヨハネのもとに集まって来たか、については取りあえず問わないことにしましょう。
さて、15節は上述のように繋ぎですが、そこでは民衆が
メシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えて
いました。
実はギリシャ語の原文には「メシア」という言葉はありません。
当時のユダヤ人及びルカによる福音書の読者にとって「待ち望む」といえば「メシアを待ち望む」というのは自明のことだったのでしょう(『主日の聖書解説<C年>』)
当時のユダヤ社会が如何に混乱し、人々が疲弊していたかが分かります。
彼らにとってはメシアの到来しか希望が無くなっていたということでしょう。
そこで人々が洗礼者ヨハネが自分たちの待ち望んでいるメシアかもしれないと思ったとしても無理のない話です。
それに対してヨハネが
自分はメシアではない
と告げるのが後半です。
わたしよりも優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない(16節)
とヨハネ自身が宣言しています。
これ以上の説明はもはや必要ではないと思われますが、最後に一点だけ言葉を確認しておきましょう。
それは16節後半の
履物のひもを解く
です。
当時の社会において上流階級の人間が履物を履いたり脱いだりする時には自分で紐を結んだり解いたりしませんでした。それは奴隷の仕事だったのです。
ですからヨハネは集まって来た人々に対し、
あなたたちは私のことをメシアだと勘違いしているかもしれないが、この後に来る方に比べれば私など奴隷以下の存在だ
と言ったことになるのです。
ヨハネは人々に悔い改めのための水の洗礼を施しました。
それに対して、「その方」すなわちイエスは「聖霊と火で洗礼をお授けになる」のです。
「聖霊と火」による洗礼は、罪の赦しをもたらす洗礼であり、しかも人間と社会のあり方に根本的な影響を与える洗礼です(『主日の聖書解説<C年>』)
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』教友社
『主日の福音-C年』オリエンス宗教研究所