そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた(3節)

 

 

今日の福音朗読では先ず冒頭に

 

皇帝ティベリウスの治世の第十五年(1節)

 

と書かれています。

 

ティベリウスの在位はCE14年~37年とされていますので、今日の福音箇所に書かれているのはCE29年頃の出来事であったということが分かります。

 

そして1節~2節前半には、その当時のイスラエルにおける政界・宗教界の支配者の名前が列記されています。

 

注目すべきは2節の後半に

 

神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。

 

と書かれていることです。

 

「神の言葉」は支配者である領主たちはもちろん宗教界の指導者である大祭司に降ったのではありませんでした。

 

それは、「らくだの毛衣を着、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた」(マタイ3章4節)という一介の修行者のような若者に降ったのです。

 

しかも、この若者がエルサレムではなく、荒れ野にいたことにも注目しましょう。

 

「神の言葉」はエルサレムに住む支配者たちにではなく、荒れ野に住む、現代風に言えばホームレスの青年の上に降ったということです。

 

今日は詳しく触れませんが、聖書の中で「荒れ野」は特別な意味を持っていることを頭の片隅においておきましょう。

 

この「洗礼者ヨハネ」の登場については四福音書全てが取り上げ、預言者イザヤの言葉を引用しています。

 

ただ、ルカによる福音書には他の三福音書と大きく異なる点があります。

 

マタイ、マルコ、ヨハネでは

 

荒れ野で叫ぶ者の声がする

「主の道を整え

その道筋をまっすぐにせよ(マタイによる福音書3章3節)

 

と、イザヤ書40章3節の言葉のみを引用しています。

 

それに対しルカによる福音書ではイザヤ書40章の3~5節が引用されているのです。

 

つまり、ルカにとっては4節、5節も重要であった、ということになります。

 

ルカによる福音書の3章5節には

 

谷は全て埋められ

山と丘はみな低くされる。

曲がった道はまっすぐに

でこぼこの道は平らになり

 

と書かれています。

 

ここでは「受動形」が使われていますが、その動作の主体、英語でいえばbyの後に来る主体は神ないしは神の言葉なのです。

 

このような「受動形」は「神的受動形」と呼ばれ、

 

行為の主体は神であるが、神を口にするのを避けるために受動形で述べる言い方(『主日の福音-C年』)

 

ということになります。

 

3章の見出しにあるようにこのヨハネは「洗礼者ヨハネ」と呼ばれていますが、彼の活動については

 

罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた(3節)

 

と短くまとめられています。

 

参拝や礼拝の前に沐浴をして身を清めるということは様々な宗教で古くから行われていることでユダヤ教もその例外ではありません。

 

雨宮神父は

 

紀元前2世紀ごろのヨルダン川地方では特に水洗いの儀式が盛んだったようです(『主日の聖書解説<C年>』

 

と解説しておられますし、しばしば古代イスラエルの遺跡から沐浴場が発掘されています。

 

ただ、ヨハネが「悔い改めの洗礼」という時、それは伝統的な、あるいは当時流行していた宗教的しきたりを指しているのはないことは明らかです。

 

ここでの「悔い改め」とは単に日ごろの自分の行いを反省するというような意味ではありません。

 

「悔い改め」とは

 

神が起こした業の方へと生きる姿勢全体を変える(『主日の聖書解説<C年>』

 

ことを意味します。

 

この「洗礼者ヨハネ」の「悔い改めの洗礼」については来月、「主の洗礼の主日」に改めて詳しく学ぶことにいたします。
 

参考:

 

雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』教友社

     『主日の福音-C年』オリエンス宗教研究所

カトリック中央協議会編『毎日の読書 「教会の祈り」読書 第二朗読 

     第一巻 待降節・降誕節』カトリック中央協議会