その名は「主は我らの救い」と呼ばれるであろう。(16節)
本当に時の経つのは早いもので、もう11月も最終週ですね。
教会の暦では今日から待降節、そして新しい年(C年)が始まります。
今日の朗読の冒頭には
見よ、わたしが、イスラエルの家とユダの家に恵みを果たす日が来る(14節)
という神の言葉が記されています。
エレミヤ書の他の箇所にも
見よ、わたしの民、イスラエルとユダの繁栄を回復する日が来る
(30章3節)
あるいは
見よ、私がイスラエルの家とユダの家に、人の種と動物の種を蒔く日が来る(31章27節)
とあります。
この「イスラエルとユダの繁栄を回復する」という神の言葉は30~33章には度々出てきますが、雨宮慧神父によればそれは
捕囚民の帰還とエルサレムの復興を預言している(『主日の聖書解説<C年>』)
ものであり、そこから
30-33章は「慰めの書」と呼ばれている(同上)
とのことです。
今日の朗読箇所で注目したいのは
わたしはダビデのために正義の若枝を生え出でさせる(14節)
という一節です。
「若枝」といえば、すぐに
エッサイの株からひとつの芽が萌えいで
その根からひとつの若枝が育ち
というイザヤ書の一節(10章1節)が思い起こされます。
また、サムエル記下23章には「ダビデの最後の言葉」という見出しがつけられている。その5節には
すべて神は芽生えさせてくださる。
と記されています。
この「芽生えさせる」という動詞の名詞形が「若枝」である(『主日の聖書解説<C年>』)である。
「若枝」は「ダビデ王の子孫の王」を表しているのです。
さらに、14節の「若枝」には「正義の」という形容詞がついていますが、
この「正義」の原語がツェダカである。
「正義」は一般的な日本語では「人がふみ行うべき正しい道」(広辞苑)を意味しています。
聖書におけるツェダカは
神と人との関係、人と人との関係の誠実さ(『主日の聖書解説<C年>
』
を意味し、結局、「救い」と同義になるわけです。
言い換えれば、「救い」は神と人との関係への誠実さを表していることになります。
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<C年>』教友社
『図説雑学 旧約聖書』ナツメ社