わたしは真理について証しをするためにために生まれ、そのためにこの世に来た。(37節)

 

今日の福音朗読では総督官邸に連行されたイエスに対してピラトが

「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問する場面が描かれています。

 

ピラトがイエスに

 

「お前がユダヤ人の王なのか」

 

と尋問した時、ピラトの心の中には

 

ユダヤ人の王を名乗っているからにはよほど体格が立派で戦さにも強そうな男かと思っていたら、こんな薄汚れた若造か

 

という半ば驚き、半ば蔑みの気持ちが起こったに違いありません。

 

イエスはピラトに

 

それはあなた自身の考えですか、それとも誰かがそう言っているのですか(34節)

 

と答えますが、それに対してピラトは

 

自分はユダヤ人ではない。お前の同胞や祭司長がお前をここに連れて来たのだ(35節)

 

と答えます。

 

この一連のやり取りについてピラトはイエスに同情し最終的には無罪だと言った(38節)と読む人もいるようですが、ピラトの気持ちとしては、

 

ユダヤの王というからには自分の地位を脅かしそうな偉丈夫の男かと思ったら、なんだか薄汚い、貧相な若造じゃないか。いちいち、こんな話を持ち込んでくるなよ!

 

という気持ちだったのではないでしょうか。

 

ポンテオ・ピラトという人物については出身地や生没年が不明で、ローマ帝国第二代皇帝ティベリウスの時に総督を務めています。

 

このピラトの気持ちについては、現代日本に当てはめて考えてみると分かり易い、と思います。

 

「霞が関」から官僚がある県の県庁の要職に派遣されてきたとします。民間企業ならばそこで実績を上げて本社に戻りたい、ということになるのでしょうが、官僚の場合はむしろ自分の任期中は余計なことに巻き込まれず大過なく数年を過ごして東京に戻りたいと願うでしょう。

 

ピラトの場合も同様に、ユダヤ人同士のいざこざに巻き込まれてローマに戻るのが遅れたりしてはたまったものではない、というぐらいの気持ちだったとしてもおかしくありません。

 

もっとも、ピラトはエルサレム神殿の水道工事に関わる不祥事やサマリア人暴動鎮圧事件を告発されてローマに戻ることになったようです。

 

暴動鎮圧はともかく水道工事に関わる不祥事などはそれこそ現代日本でいくらでもありそうな話ですね。

 

閑話休題(それはともかく)

 

そのような状況ですから、イエスの

 

わたしは真理について証しをするためにために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く(37節)

 

という言葉を聞いても何のことか全く理解出来なかった、というより理解しようとすらしなかったでしょう。

 

今日の聖書箇所を読んで不思議に思うかもしれません。

 

というのは、今の時期よりもむしろイースターの前に読まれるべき内容だからです。

 

実は今日はカトリック教会では「王であるキリスト」の主日とされており、教会の暦ではB年最後の主日なのです。

 

クリスマスに向けて来週から待降節が始まります。

 

その前週に

 

わたしは真理について証しをするためにために生まれ、そのためにこの世に来た。(37節)

 

というイエスの言葉を心に刻んでおくのは大切なことと言えるでしょう。

 

参考:

 

雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』教友社

     『主日の福音-B年』オリエンス宗教研究所