柳田邦男『僕は9歳のときから死と向き合ってきた』(新潮社 2011年8月30日)

 

 

(続き)

 

本書の表題になっているように、柳田氏は幼い頃、生まれ育った栃木県鹿沼市で空襲を経験し、更に終戦直後に結核で次兄と父親に相次いで先立たれています。

 

ただ、柳田氏をディスるわけでは決してありませんが、そうしたことは昭和の初めに生まれた日本人ならば戦時中、終戦直後には多かれ少なかれ体験したことだと思います。

 

今日ご紹介している本書のあとがき(「おわりに」)には氏がご自身にとって重要な節目と考えられたことを年齢を追って書かれています。

 

その冒頭に

 

▽二十歳代半ば  広島で原爆問題取材

▽二十八~三十八歳  地震・台風・集中の豪雨問題に取り組む

▽二十九歳~ 連続航空事故取材。四年間原因追及の取材。

 

と、あります。

 

ですので、航空評論家(というより厳密には航空事故評論家)になる前から原爆や天災に対する取材を行っておられたわけです。

 

更に、このあとがきによりますと

 

▽四十三歳~ 末期がんの精神科医との出会いから「生と死」の問題と深く向き合うようになる。


ということです。

 

つまり、原爆や災害、更には航空事故の取材を通して「生と死」の問題に取り組んでこられた氏が四十代半ばで本格的にその問題に向き合ということです。

 

更に

 

▽五十七歳 次男の自死に直面

 

と書かれています。

 

小欄はある時、ご次男が自死をされたということを知って大変にショックだったのです。

 

ですが実は、それだけではなく夫人が20年以上も心の病を患い、更にご長男も度々ウィルス性脳炎の後遺症に悩まされる状態であった、ということも知り本当に愕然とさせられたのでした。

 

大変に厳しい状況下で執筆活動を続けた来られたわけなのですが、そうした中で柳田氏にとっては河合隼雄氏との出会いに大きな意味があったことを述べておられます。

 

柳田氏は1936年のお生まれということですので、今年85歳になられていますが、「いよいよ」ということになった時の心構えを欠いておられますので、最後にそれをご紹介しましょう。

 

それは「わたしにとっての『尊厳ある死』」という比較的短いエッセイの結論にあたる部分で「2.重い病気で死が避けられなくなったときどうするか」とう見出しがついています。

 

① 自分中心の生き方

 

義理や世間体にとらわれずん、その時点で自分がいちばんしたいことを中心に据えて一日一日の生き方と闘病の形を考える。

 

② 医療の受け方

 

理想は在宅ホスピスだが、病状に応じて病院またはホスピスの世話になる。

 

③ 延命治療についての考え方

 

延命治療を一切断るのではなく、QOL維持につながる者であれば、むしろ積極的に治療を受ける。

 

④ 自分の死のイメージ

 

自分が死にゆくプロセスを、天井からテレビカメラで撮影するような目で、予めイメージし、日頃から自分なりに納得できる死の形を考え、胸に刻むようにしている。

 

このように、極めて明確に「最期の時」への歩み方をイメージされているのですが、特に心を打たれるのが④の「自分が死にゆくプロセスのイメージ」です。

 

私自身、最期の数年をどういう形で迎えることになるのか全く見当が付きませんが、この柳田氏の「4ヶ条」をしっかり胸に刻んでおきたいと改めて思う次第です。

 

私自身もこうしたステップを歩みたく思いますが、もし不治の病が発見されたとして、果たして冷静かつ穏やかな「死に様」となるかどうかの自信は残念ながらありません。

 

☆☆☆☆☆