皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである(44節)

 

今日の福音朗読は聖書箇所としては短いのですが、2つの単元に分かれています。

 

前半の38~40節は共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)に書かれているのに対して、後半41~44節は何故かマタイは取り上げておらず、マルコとルカのみに書かれています。

 

そのために2つに分けたということなのでしょうが、内容的には繋がっています。

 

内容としては前半の律法学者の姿に後半のやもめの姿が対比されている、という極めて分かり易い話となっています。

 

前半では「長い衣をまとって歩き回る」というふうに目立ちたがりで、「広場で挨拶される」ことや「会堂で上座に座る」ことを好むというように偉そうな態度を取る律法学者が批判されています。

 

このような者たちは、人一倍厳しい裁きをうけることになる(40節)

 

とまでイエスは言い切ります。

 

雨宮慧神父は、このようなイエスの厳しい姿勢について

 

イエスは律法学者という存在自体を否定しているわけではありません(『主日の聖書解説<B年>』)

 

と、いちおう律法学者をかばっておられます。

 

ただ、イエスが活動していた時代、また少し下ってマルコが福音書を書いた当時の律法学者にそういう態度の者が目立ったというのは恐らく事実でしょう。

 

あるカトリック信徒さんから聞いた話ですが、彼の知っている神父は私用で町に出るときも祭服で行くそうです。

 

イタリアかフランスなら街の風景に溶け込んでどうということもないでしょうが、日本のそれも地方都市でそれをやったら目立つこと請け合いですね。

 

それから、プロテスタントの牧師でも「先生」と呼ばれないと途端に機嫌が悪くなってしまう人はけっこう多いようです。

 

結局、人間の業(ごう)というものは2千年経っても余り変わらないのかもしれません。

 

閑話休題(それはともかく)。

 

そのような律法学者に対比されるのが貧しいやもめです。

 

この話も内容としては極めて明快で

 

大勢の金持ちがたくさん賽銭を入れたのに対し、貧しいやもめはわずかの賽銭しかしなかった。

 

それだけです。

 

 

 

やもめの賽銭は「1クァドランス」であった、と書かれています。

 

この「1クァドランス」とは聖書に度々出て来るローマ貨幣の単位である1デナリオンの1/64です。 

 

通常、1デナリオンとは当時の1日の労賃に相当する、とされていますので、現代日本に当てはめてみますと、仮に平均的な日給を8千円としてその1/64、125円ということになります。 

 

この金額が実際に賽銭として少なすぎるのかどうかは、当時の風習を確認してみないと分かりません。 

 

今の私たちが神社やお寺を参拝した時に賽銭箱に入れるであろう金額を考えれば、そんなものだろう、とも言えますが、いずれにせよ、イエスがここで問題にしているのはもちろん具体的な金額ではありません。

 

44節には、この話の結論として

 

皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。

 

というイエスの言葉が記されています。

 

ここでは、「有り余る中」「乏しい中」が対比されていることにすぐ気が付きます。

 

この節のキーワードは「生活費を全部」という箇所でしょう。

 

ここで疑問に思うのは、「生活費の全部」がわずか125円?ということですね。

 

いくら、このやもめが貧しかったといっても生活費が全部で125円、しかもそれを全て賽銭箱に入れてしまう、というのは話が極端過ぎます。

 

そう思うのも無理はありませんが、実際、イエスが語るたとえ話や説教の中には、「いくら何でもそれはあり得ない」という極端なケースがしばしば出て来ます。

 

恐らくそれは聴衆の注意を引き付けるための一種のテクニックなのでしょう。

 

ここで「生活費」と訳されている原語は「ビオス」ですが、この言葉は私たちにもなじみがありますね。

 

英語のbiologyやbiographyのbio-の語源になっているギリシャ語です。

 

この言葉には、今日の箇所で訳されているように「生活費」という意味はもちろんありますが、「生活」「人生」という意味も含まれています。

 

特に最近、ネットでは先ほどのbiographyを縮めてbioを「経歴」の意味で良く使っていますね。

 

ですのでここで、「自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れた」ということはとりもなおさず、自分の人生すべてを投げ出した、神に委ねた、ということを実は意味しているのです。

 

生活にゆとりのある人は収入の一部を献金する、言い換えると、信仰生活は生活全体のごく一部に過ぎない。

 

それに対し、本当に行き詰まった人は、その人生全てを神に委ねる他はない、ということでしょう。

 

マザー・テレサは

 

本当に祈ることすら出来なくなったときは、全てをイエス・キリストに委ね、イエスに祈ってもらう

 

という意味の言葉を遺していますが、まさにこのやもめの姿勢ということが出来ます。

 

最後に蛇足となりますがもし、この箇所を引用して

 

皆さんもこのやもめに倣って生活費全部を教会に献金しましょう

 

と説教する牧師がいたら、すぐにその教会を離れたほうが良いでしょう。

 

さすがにそんな牧師はいないはずですが...

 

参考:

 

雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』教友社

    『主日の福音-B年』オリエンス宗教研究所