人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである(45節)
先週、読みましたように金持ちの男と話したあと、イエスの一行はいよいよエルサレムへの旅に出発します。
イエスが先頭に立って歩いて行くのを
弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた(32節)
と書かれています。
聖書では特に触れられていませんが、ファリサイ派や律法学者その他によって一行の行く手を阻もうとする露骨な動きが実際にあったのかもしれません。
一行は動揺を隠せませんが、イエスは12人の弟子たちに向かって「自分の身に起ころうとしていること」(32節)を話します。
これは既に三度目のことでした。
さすがに弟子たちもイエスのエルサレム入城が決して、凱旋する王が歓呼の声で迎えられるようなものでないことは理解し始めたでしょう。
ですから、ヤコブとヨハネが
栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください(37節)
と願ったとき、彼らも
イエスがイスラエル王国を再建してエルサレム宮殿の玉座に着いたとき、自分たちは右大臣、左大臣となる
ことを願ったわけではないはずです。
しかしながら、
彼らが栄光を求めたのは、エルサレムでの過酷な運命を耐え抜くためには、この「過酷な運命」が「栄光の座」に直結していて欲しいと考えるから(『主日の聖書解説<B年>』
ということなのでしょう。
苦難の後には必ず報いが得られる
と信じていたに違いありません。
イエスに従ってから弟子たちは町から町へ、村から村へと歩き続け、夜寝る所はもちろんのこと、その日に食べる物にさえ不自由することも一度や二度ではなかったはずです。
それは、「主の祈り」の中の
日用の糧を今日も与えたまえ
と祈りの切実さにも表れているのです。
イエスは
わたしの右や左に誰が座るかは、わたしの決めることではない(40節)
と彼らの願いをはねつけるのです。
その上で、イエスは改めて一同を呼び集め、
あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者はすべての人の僕になりなさい(43節後半~44節)
と教えます。
これらのイエスの言葉は如何にも冷たく突き放しているように私たちには思えますが、
わたしに従って行く以上、それなりの覚悟が必要だ
ということでしょう。
イエスが飲む杯を飲み、イエスが受ける洗礼を受ける(38~39節)
覚悟があるか、と弟子たちは問われたのです。
翻って、今の日本のキリスト教会を見た時、信徒はもちろん、牧師「先生」や神父「様」も果たしてどれだけの覚悟を持って信仰生活を送っているでしょうか。
ヤコブとヨセフはイエスと行動を共にし敢えて苦難をうけること、そのものの内に意味を見出すのではなく、その苦難の先に栄光を期待していました。
栄光を受けられないのであれば、彼らがイエスと共に受けるであろう苦難そして彼らの人生そのものが無意味になってしまう、そう考えたのでしょう。
この世での様々な苦難は甘んじて受けるが、せめて天の国では、と思ったとしても、それを人間的な弱さ、と言って切って捨てるのは余りに酷かもしれません。
そのように弱い人間たちのための身代金としてイエスはこの地上に父なる神によって送られたのでした。
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』教友社
『主日の福音-B年』オリエンス宗教研究所