知恵と共にすべての善が、わたしを訪れた。知恵の手の中には量り難い富がある。 (11節)
今日の旧約聖書朗読は知恵の書からです。
先日も朗読する機会がありましたが、知恵の書はいわゆる「旧約聖書続編」に含まれていて、プロテスタント教会では普通、読まれることがありません。
知恵の書は大きく三部からなりますが、今日の朗読箇所は第二部に属し、ソロモン王が語る形式となっています(『主日の聖書解説<B年>』)
ふつう、人は「王笏」や「王座」すなわち世間的な地位もしくは権力、あるいは「宝石」や「金」、「銀」などの富を重んじます。
さらに権力や富と縁のない一般国民の私たちでも「健康」や「容姿の美しさ」は大切に思います。
しかし、ソロモン王は
金も砂粒にすぎず、
知恵と比べれば銀も泥に等しい。(9節)
といいます。
それらとは比べ物にならないのが「知恵」です。
ソロモンは
「知恵」は光にも勝る物であり、その輝きは消えることがない(10節)
とし、
知恵と共にすべての善があり、知恵には量り難い富がある。(11節)
とまでいうのです。
ソロモンを名乗る著者が知恵を強調する理由を考えましょう。
まず確認したいのは、この知恵の書が紀元前1世紀に書かれたと言わていることです。
ソロモン王は紀元前926年頃に死亡したとされていますので、作者がソロモン王ではあり得ません。
知恵の書が書かれた当時はいわゆる「ヘレニズム文化」の最盛期でした。
雨宮慧神父によると、
「知恵の書」はヘレニズム文化を完全に否定しているわけではないが、それが物質文明につながるのを危惧したあので、神から来る知恵の価値を強調した(『主日の聖書解説<B年>』)
のでした。
新旧約聖書において、実際に書かれた年代よりはるかに古い人物などに仮託する例としてはダニエル書の「ダニエル」やヨハネの黙示録における「バビロン」が挙げられます。
それは文書の権威づけであったり、同時代の社会を批判するのに直接、名指しをするのを避けるなどの理由があったのでしょう。
例えば、上述のヨハネの黙示録における「バビロン」はローマ帝国を指しているのです。
日本でも有名な例があります。
「仮名手本忠臣蔵」は元禄年間(1701~03年)に起こった事件を室町時代(1338年)に起こった事件として描いています。
しかし、これを人形浄瑠璃や歌舞伎で観た当時の人たちにはすぐに
「ああ、例の事件だな」と分かったはずです。
閑話休題(それはともかく)
ソロモンは知恵こそ「量り難い富」(11節)とします。
旧約聖書学では
ヨブ記
箴言
コヘレトの言葉
シラ書
知恵の書
の5つを総称して「知恵文学」と呼びます。
これらの「知恵文学」の内「ヘレニズム文化」と同時代のものは
人は理性による探求をおろそかにしてはならない。しかし、神への畏れを欠いたとき、暴走が始まる、と説いている。(『図説雑学 旧約聖書』)
とされています。
そして、その知恵の根本には「神を畏れる」こと(箴言11章7節)があります。
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』教友社
『図説雑学 旧約聖書』ナツメ社