わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ。(29節)
今日の聖書箇所である民数記11章の冒頭には「民の不満」という副題がつけられています、
この「民の不満」については、これまでも何度か取り上げていますが
その様子ば4~6節に次のように書かれています。
民に加わっていた雑多な他国人は飢えと渇きを訴え、イスラエルの人々も再び泣き言を言った。「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない。
要するにモーセに率いられて「約束の地」を目指していたイスラエルの民が
こんな状態が続くのだったらエジプトの方がよっぽどましだ。エジプトにいた時は確かに奴隷状態だったが、少なくとも食べるのに困ることはなかった。
という不満をぶちまけた、ということです。
リーダーのモーセもさすがに疲れ果て、神に
わたし一人では、とてもこの民すべてを負うことはできません。わたしには重すぎます。(14節)
と訴えます。
すると、モーセに対して神は
あなたに授けてある霊の一部を取って、彼らに授ける。そうすれば、彼らは民の重荷をあなたと共に負うことができるようになり、あなたひとりで負うことはなくなる。(17節)
と約束します。
だいぶ前置きが長くなってしまいましたが、今日の聖書箇所には、その神の約束が成就するものの新たな問題が起こった、と書かれています。
神はモーセが長老の内から選んで幕屋の周りに立たせた70人に霊を授けたが、その霊が幕屋に集まっていなかった2人にも降ったのでした。
このようにまとめてしまいますと、この箇所が現代に生きる私たちにとって一体どんな意味があるかと思ってしまいますね。
その答えはヨシュアとモーセのやり取りの中にあります。
ヨシュアはモーセに、70人の長老以外に霊を降すのを止めるように神に頼んで欲しい、と訴えます。
それに対するモーセの答えは
わたしは主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望している(29節)
というものでした。
神の霊はすべての民に開かれるべき力(雨宮慧神父)
とモーセは考えていたからです。
神の霊は旧約聖書でいえば預言者や長老など特に選ばれた人々に対してではなく、私たちすべてに働く、ということでしょう。
参考:
雨宮慧『主日の聖書箇所<B年>』教友社