キリストの弟子だと言う理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける(41節)
今日の聖書箇所は大きく38~41節、42~48節の2つに分けることが出来ます。
まず38~41節ですが、この箇所のキーワードは「イエス・キリストの名」で、この短い単元の中に3回も出て来ます。
3つ目は新共同訳では「キリストの弟子だという理由で」(41節)
と訳されています。
直訳すると「キリストのものであるところのわたしの名において」となります。
これについては新しい聖書協会共同訳でも「あなたがたがキリストに属する者だという理由で」となっています。
確かに直訳はいかにもこなれていない日本語になってしまっていますが、原著者マルコが短い間に「オノマ(言葉)」を3度も繰り返していることを考えれば、彼の意図を活かした翻訳とすべきでしょう。
ちなみに英語聖書、例えばRevised Standard Versionでは
because you bear the name of Christ,
と、はっきりnameという単語が使われているのはさすがです。
閑話休題(それはさておき)
実はここは更に38~41節と41節の2つに分けることが出来ます。
38~41節では、ヨハネを代表として弟子たちが、
「自分たち以外にも先生のお名前を使って悪霊払いをしている者がいるので、止めさせようとした。」
と、報告します。
つまり、
自分たちだけがイエスの正統な弟子であり、他の者がイエスの名をかたって商売をするのはけしからん
というわけです。
それに対するイエスの答えは
このグループの外にある者がわたしの名を使っていても、わたしたちに敵対しているのでなければ、結局はわたしたちの仲間ではないか。
というものでした。
この箇所で面白いのは当時、「十二弟子」の他にも「イエス・キリストの名において」悪霊払いや病気治癒を行なう者が恐らく複数いた、ということを福音書が書き記していることです。
この中には、「十二弟子」のように寝食を共にするほどではないが、イエスに従った人たち、いわゆる在家信者といえるような人たちだけではなく、もともと「町の拝み屋」さんでイエスの名を使っただけの人たちも含まれているかもしれませんね。
41節では
「キリストの名によって」働いている者たちに「水を飲ませてくれる」人たち、つまり施しをし援助をしてくれる人たちは必ずその報酬を受ける
とイエスは言っています。
後半の42節以下では「つまずく」という言葉がテーマとなっており、短い間に4回出て来ます。
つまずく、というと普通、私たちは漢字では「躓く」と書き、歩いている時に何か路上に落ちている物にぶつかってよろける、転びそうになる、ことを意味します。
ただ、今日の聖書箇所で「つまずく」と訳されている原語の「スカンダリゾー」は「わな」を意味する「スカンダリオン」から派生した動詞です。
ですから、今日の箇所での「つまずく」は「道に落ちている石でこける」というよりは強い「罠を仕掛ける」「罠にはまる」というニュアンスとなるわけです。
イエスは「つまずかせる」を4回も繰り返しています。
手や足、目があなたをつまずかせるならそのようなものは切り捨てたり、えぐりだしたりしてしまえ。
とまでいうのです。
ここで、「手や足、目を捨てよ」 というのが文字通り、、そうせよ、というわけでないのはもちろんです。
要するに、
仕掛けられた罠にはまらないように、また他人を陥れるために罠を仕掛けないように
とイエスは言っているわけです。
最後にこれは余談ですが、キリスト教徒はそれまで通っていた教会を離れてしまった理由として良く「牧師につまずいた」とか「信徒の誰それにつまづいた」という言い方をします。
今朝、学んだようにギリシャ語の「つまずく」の元々の意味が「罠にはまる」だとすれば、それは結局、サタンが教会の一個人を通して仕掛けた罠にはまってしまった、ということかもしれません。
参考
雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』教友社
『主日の福音-B年』オリエンス宗教研究所