わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。(37節)
今日の聖書箇所の書き出しは
一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った(31節)
とありますが、この「そこ」とは、イエスの姿が変わった山(2~8節)から降りた時に麓で悪霊に憑りつくかれた少年を癒した場所です。
一行はカファルナウムに来ますが、弟子たちは「途中でだれがいちばん偉いかと議論し合って」(34節)いました。
ここでの「途中で」という言葉は聖書協会共同訳では「道で」という、より原語に近い言葉に改められています。
これは些細な、いわばマイナーチェンジのように思えます。
しかし、敢えて「道で」と言っているのは、この「道で」が単に「カファルナウムへの途上」を表しているだけではありません。
それは、イエスが歩んでいる、またこれから歩むであろう「受難と十字架への道」を示しているのです。
十字架への道を歩むイエスに従う者たちにとっては「だれがいちばん偉いか」などはもはや問題ではないはずです。
ですからイエスは十二人の弟子たちを呼び寄せて
いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい(35節)
と教えたのです。
人間だれでも大なり小なり「人より目立ちたい」「人の上に立ちたい」という気持ちはあるものです。
それはキリスト教会という、日本では極めて狭い世界の中でも変わりません。
なんとか教会全体を牛耳りたい牧師や他の信徒たちの上に立ちたい信徒など、実に見苦しい存在でしかありませんが、残念ながら決して少なくないのです。
私は今、そうした者どもの対極にある方として、半生をハンセン氏病施設内の小さな教会での伝道に捧げ、先に旅立って行かれた夫人の後を追うようにして静かに天に召された老牧師のことを思い出しています。
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』教友社
『主日の福音-B年』オリエンス宗教研究所