主なる神はわたしの耳を開かれた。
わたしは逆らわず、退かなかった。(5節)
先週ご紹介したようにイザヤ書は66章からなりますが、大きく
1~39章 イザヤ
40~55章 第二イザヤ
56~66章 第三イザヤ
の三つに分けられます。
「第二イザヤ」「第三イザヤ」とは如何にもこなれない表現ですが、それぞれ1~39章の「イザヤ」とは違う預言者に書かれたという以上のことが分からないため便宜上そのように名付けられているわけです。
今日の聖書箇所は「バビロン捕囚」の末期に書かれたとされる「第二イザヤ」に含まれています。
この「第二イザヤ」は「罪の赦しと捕囚からの解放を預言し」(『岩波キリスト教辞典』)ています。
今日の箇所の「主の僕」は「第二イザヤ」自身を指しています。
「第二イザヤ」は主なる神が
朝ごとに耳を呼び覚まし、弟子としての舌をあたえてくださる
と「朝ごとに繰り広げられる神との深い交わり」(『主日の聖書解説<B年>』)を賛美します。
しかし、そのような「第二イザヤ」を捕囚下にあるイスラエルの民は受け入れようとしませんでした。
何故なら「第二イザヤ」は「ペルシャ王キュロスによるバビロン解放」を預言していたからです。
このイスラエルの民の気持ちは理解できますね。
神(ヤハウェ)による解放を望んでいるのにペルシャがバビロン帝国にとって代わることが解放とは何事か?というわけです。
人間の常識からすれば、そう反応するのが当然です。
しかし、「第二イザヤ」は
捕囚民の誰もが侵略者としか見なかったキュロスの背後に神の働きを見て(『主日の聖書解説<B年>』)
いたのでした。
人間の常識、人間の知恵をはるかに超えたところで神の力が働く、ということを「第二イザヤ」は預言していた、ということでしょう。
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』教友社
『図解雑学 旧約聖書』ナツメ社
大貫隆他『岩波キリスト教辞典』岩波書店