そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって「エッファタ」と言われた。これは「開け」という意味である(34節)
今日の聖書箇所冒頭に書かれているイエスの旅程は実は極めて不自然です。
何故なら、わざわざ、いったんシドンまで北上し、そこから恐らく東に向かい更に南下をしてガリラヤ湖の東岸地方まで行き、また西に折れて湖畔に着いた、ということになっているからです。
本来ならば地中海沿岸のティルスからガリラヤ湖湖畔に行くには海岸沿いに南下し、途中から東に向かえば良いからです。
Goole Earthで見る現在の様子から類推すると聖書に書かれている道中はとても困難そうであり、イエスがわざわざこの道のりを取ったとは考えにくいのですが、その理由については聖書の文そのものからは分かりません。。
この点について、雨宮慧神父は
マルコは「ユダヤ人の住む地」とその「周辺部の異邦人の地」つまり「昔の人の言い伝えに固執する人たち」と「イエスを受け入れる人たち」との対比に興味があるのであろう(『主日の聖書解説<B年>』
と解説しておられます。
この31節のような箇所は、私たちが聖書を読む際に何となく読み飛ばしてしまいがちですが、少し立ち止まってディテールを検討してみると色々と発見がある、という好例だろうと思います。
閑話休題(それはさておき)
32節以下はマルコだけが書き記している奇跡物語です。
32節と結びの36~37節にはイエスの奇跡を巡る人々の行動が書かれています。
以前から度々、触れているように福音書の奇跡物語は概ね3つのパートから成っています。
今日の箇所に当てはめてみますと、
1 病状の描写: 32節
2 癒しの行為: 33~34節
3 治癒の証明: 35節
この奇跡物語の内、冒頭に掲げた34節について2つの言葉を学びます。
まず、「深く息をつき」という言葉です。
この「深く息をつき」と訳された原語の「ステゾー」は「呻く」という意味ですが、雨宮慧神父はこの言葉について
圧迫や苦難のゆえに引き起こされる「ため息」(『主日の福音-B年』)
とし、更に
この「ため息」の底には、受けている圧迫や苦難があるべきではないから、そこから解放されたという切なる願いがある(『主日の福音解説<B年>』)
と解説しておられます。
このような願いをもって、イエスは耳の不自由な人に「エッタファ」と言いました。
マルコはここでわざわざ、
これは「開け」という意味である(34節)
と説明しています。
これは「エッタファ」というアラム語がギリシャ語の読者には分からないだろうとマルコが判断したからです。
マルコが対象とした読者はギリシャ語を日常語とする人たちであった、というのが新約聖書学での定説となっています。
それでは何故ここでマルコはわざわざアラム語の言葉を書き記したか、ということになります。
それはイエスが癒しの行為を行う際に何やらありがたみのあるような訳のわからない呪文を唱えるのではなく、アラム語という日常会話で使われる言葉を使ったというところがポイントです。
イエスの行う奇跡は魔術ではなく、神の支配とその愛を示すしるし(『主日の福音解説<B年>』)
でした。
イザヤ書35章4節以下で示されたイザヤの預言はイエスを通して現実のものとなったのです。
参考:
雨宮慧『主日の福音解説<B年>』教友社
『主日の福音-B年』オリエンス宗教研究所