あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。
(8節)
今日の聖書箇所では、ファリサイ派や律法学者が、弟子たちが手を洗わずに食事を始めたことをイエスに対して難詰するというエピソードが語られています。
2節では
汚れた手、つまり洗わない手
と書かれています。
普通ならば、洗わないのなら汚れているのは当たり前だ、と思ってしまいます。
ここで「汚れた手」について「洗わない手」とわざわざ断っているのは、汚れたと訳されている原語「コイノス」には元々、「汚れた」という意味がないからです。
マルコによる福音書をギリシャ語で読む読者にはこの注釈が必要だったわけです。
Strong's Dictionaryの解説を意訳すれば、この言葉の意味は
"common"あるいは"shared"であり、ヘブライ語的用法において"unwashed"という意味となる
とされています。
雨宮慧神父はこれについて
ユダヤ人にとって「世俗」は「汚れ」に他なりません。そこで、この語は「汚れた」といった意味合いを持つことになりました。 (『主日の聖書解説<B年>』
と解説しておられます。
ですから、「洗わない手」とは不衛生だということではなく、ユダヤ教の祭儀上、不都合だというわけです。
新共同訳で「汚れた」という漢字に対して「よごれた」ではなく、「けがれた」とルビをふっているのもそのためでしょう。
ところで、日本の文化における「穢れ」は大変、面白いテーマですが、それについては改めて論じてみたいと思います。
今日の箇所について新共同訳では「昔の人の言い伝え」という表題が掲げられており、この「言い伝え」という言葉が何度も出て来ます。
この「昔の人の言い伝え」が単に昔からよく言われている話、昔ばなしという意味で使われているのでないことは今さら言うまでもありません。
掟もしくは律法の根本は聖書に記されたものですが、ユダヤ人にとってそれと並んで同じように重要なのは口から口へと言い伝えられて来た、いわゆる「口伝律法」でした。
イエスがイザヤ書29章13節の言葉を引用して
「人間の戒めを教えとしておしえ」
と言ったとき、イエスは決して言い伝えられて来た教えそのものを全面的に否定したわけではないでしょう。
ファリサイ派の人々は決して不信仰だったわけではありません。
それどころか、
聖書の教えを実生活に生かそうと努力した人たち(『主日の聖書解説<B年>』
でした。
そうではなくて、一つひとつの細かい掟に拘り過ぎる余り、本来の意味を忘れてしまうことに対して警告を発したと考えるべきです。
21~22節で、イエスは「人間の心から出て来る悪い思い」の数々を列挙しています。
イエスは、人に汚れをもたらす原因は洗わない手のように外側にはなく、人間の内側にあると教えます。(『主日の聖書解説<B年>』)
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』教友社
『主日の福音-B年』オリエンス宗教研究所
James Strong "Strong's Greek Dictionary of the New Testament"