わたしの魂は主をあがめ、

わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。(1章47節)

 

 

本ブログは毎日、カトリック教会の「教会歴と聖書朗読」に拠って聖書の学びを進めています。

 

そのような中、今日の主日の「福音書」の箇所はいささか奇異に感じられるかもしれません。

 

といっても、内容がおかしい、ということではありません。

 

39~45節には、

 

天使ガブリエルからイエスの誕生を予告されたマリアが従姉のエリザベトを訪ねて挨拶をすると、妊娠していたエリザベトの胎内の子が喜んで踊った

 

と書かれています。

 

聖霊の働きによってエリザベトはマリアが「主の母」になるという恵みを受けたと悟ったのでした(雨宮慧神父)

 

そして、46節以下は「マリアの讃歌」(『マグニフィカート』)として大変に有名な箇所です。

 

先ずマリアは身分の低い自分のような者に神が目を留めてくださったことに感謝を表します。

 

ダビデの王座を受け継ぎ、ヤコブの家を治めることになる偉大な人(1章32~33節)はエルサレムの貴族や大祭司の令嬢にではなく、ナザレという寒村の貧しい少女に宿る、と告げられたからです。

 

しかも、その恵みと憐みはマリア一人ではなく、「代々に限りなく、主を畏れる全ての人」に及びます。

 

実に恵みにあふれたメッセージが伝えられているのが、今日の福音朗読箇所といえるでしょう。」

 

では、なぜ冒頭に言いましたように奇異に感じるかということです。

 

それは、いま簡単にまとめた内容から考えて、この箇所はクリスマス魔の「待降節」に読まれるべきもののように思われるからです。

 

その答えは、カトリック教会の伝統にあります。

 

カトリック教会の教会歴においては毎年8月15日は「聖母の被昇天」と定められているのです。

 

つまり、イエスの母(カトリック教会では「聖母マリア」)が天に引き揚げられたことを日ということになります。

 

今、カトリック教会の伝統と言いました。

 

確かに、古代から中世の教会において「聖母マリア」を崇敬することが高まり、彼女が死んで天に上げられた日を祝う習慣が出来てきました。

 

しかし、実際にこの日がカトリック教会の祝日すなわち「聖母の被昇天の祝日」として毎年8月15日として定められたのは今から70年前、当時の教皇ピウス12世によってでした。

 

カトリック教会の伝統、といっても実は正式には70年を経たものに過ぎないわけです。

 

プロテスタント教会はこれを「聖書にないことを教義化する」として批判しました。 当然、プロテスタント教会には「聖母の被昇天」という概念はないことになります。 

 

8月15日は、わたしたち日本人にとっては今さら言うまでもなく「終戦の日」です。

 

今日はかの戦争で命を落とされた何百万人もの人たちを偲んで静かに祈りを献げることといたしましょう。

 

本日の聖書箇所については「待降節」において改めて読み直したいと考えています。

 

参考:

 

雨宮慧『主日の福音解説<B年>』教友社

大貫隆他『岩波キリスト教辞典』岩波書店