わたしは、天から降って来た生きたパンである。 このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。(51節)

 

今日の聖書箇所を雨宮慧神父に従って、次のように分けてみましょう。

 

1. ユダヤ人のつぶやき(41~42節)

2. イエスの返答(43~46節)

3.. 命のパン(47~51節)

 

まず、ユダヤ人のつぶやき(41~42節)についてですが、ここでは

 

「ユダヤ人」

「つぶやき」

 

の2つの言葉に注目します。

 

雨宮慧神父が指摘されるところによると、ヨハネによる福音書において「ユダヤ人」とは

 

ユダヤ民族一般ではなく、エルサレムにいてイエスを目の敵とする政界・宗教界の指導者たちとその取り巻き達

 

を指しています。

 

しかし、今日の聖書箇所の舞台はガリラヤですので、ここでの「ユダヤ人」とはエルサレムの要人たちではなく、地元の人間ということになります。

 

ここで、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)には記されていて、ヨハネによる福音書にはないイエスの言葉、

 

「預言者が敬われないのは、その故郷、家族の間だけである」(マタイによる福音書13章57節等)

 

が改めて思い出されます。

 

そして、「つぶやき始め」(41節)の「つぶやく」という言葉については先日も触れました。

 

日本語の「つぶやく」は「口の中でほそほぼ言う、もごもご言う」という意味ですが、原語の「ゴンギュゾー」には

 

「当然だと思われる要求や主張が満たされずに不安定な状態に陥った状態」(雨宮慧神父)

 

というニュアンスが含まれます。

 

ですので、今日の箇所では、

 

「小さい子どもの頃から知っているヨゼフとマリアの息子であるイエスが何を偉そうに」

 

と、不審に思った地元の人たちが口々に騒ぎ立てたということになるのでしょう。

 

それに対するイエスの答えが43節以降ということになりますが、43~46節、特に44~45節の文を良く読んでみると、それぞれの文の動詞の時制が「現在→未来→未来→過去」と推移していることから

 

ここでの思考の動きは現在から出発して「終わりの日」に向かい、そこから再び現在に戻っている(雨宮慧神父)

 

ということが出来ます。

 

なお、45節に書かれているイエスの言葉、

 

「預言者の書に『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。」

 

旧約聖書イザヤ書54章13節からの引用です。

 

そして、3.命のパン(47~51節)では「パン」という言葉が短い間に5回も出て来ます。

 

あなたたちの先祖は荒れ野でパンを食べたが、死んでしまった(49節)

 

というイエスの言葉は、モーセに引率されて荒野を彷徨っていたイスラエルの民にマンナという食べ物が与えられた旧約聖書のエピソードを踏まえています。

 

あの時、イスラエルの民に与えられたのはあくまでその場の飢えを凌ぐための緊急物資でした。

 

それに対して、

 

天から降ってきた自分は永遠の命を与えるパンそのものである

 

と、イエスは言ったのでした。