イエスは、人々が来て自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた(15節)

 

今日の福音朗読箇所は聖書の見出しにもある「五千人に食べ物を与える」として大変な有名な話で、四福音書全てに書かれています。

 

ただ、今日のヨハネによる福音書は共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)と読み比べると際立った特徴がある、と雨宮慧神父は指摘しておられます。

 

それは冒頭の1~4節と結びの14~15節。

 

そこには「しるし」「山」という2つの言葉が繰り返し出て来ます。

 

まず、「しるし」ですが、

 

イエスが病人になさったしるしをみたからである。2節)

 

人々はイエスのなさったしるしを見て14節)

 

と書かれています。

 

しかし、共観福音書ではいずれも集まって来た群衆の中の病人を治したことや「五つのパンと2匹の魚」だけで5千人もの人が満腹した上にパン屑まで残ったという「事実」が書かれているだけで、「しるし」という言葉は出て来ません。

 

 

次に「山」についても共観福音書ではいずれも「人里離れた所」と書かれています。

 

この「山」について雨宮慧神父は旧約聖書における「シナイと荒れ野」と対比し、特に民数記11章との対応関係を指摘しておられます。

 

出エジプト記16章にも書かれているエピソードですが、民数記11章には

 

モーセが「エジプトでは肉や魚、野菜、果物に不自由しなかったのに、ここ(荒れ野)の中ではろくに食べるものがない」というイスラエルの民の不平不満をモーセは神に取り次ぐ

 

という話が書かれています。

 

今日の福音書箇所においては

 

「イエスが行おうとする奇跡は荒れ野で神が起こした奇跡の再現であることが強く示唆」(雨宮慧『主日の福音-B年』)

 

されているのです。

 

イエスの行った奇跡を目の当たりにして群衆は

 

「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」(14節)

 

と興奮します。

 

イエスはその様子を見て、「ひとりで山に退かれた」(15節)のでした。

 

イエスにとっての奇跡は自分が「霊験あらたかな霊能者」であることを誇るものなのではなく、

 

「彼自身が天からの賜物であることを示すための『しるし』」(雨宮慧『主日の福音-B年』)

 

だったのです。

 

参考:

 

雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』教友社

     『主日の福音-B年』オリエンス宗教研究所