イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた(34節)
今日の「主日の聖書」は内容的には先週の「十二人の使徒派遣」に続いています。
節の番号が13節から30節に飛んでいるのは間に、これも大変に有名な物語ですが、洗礼者ヨハネがヘロデ王によって殺される記事が書かれているためです。
使徒たちは派遣先からイエスのところに戻って来て「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告」(30節)しました。
それに対して、イエスは
「あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むが良い」(31節)
と言いました。
ここで、少し細かい話になりますが、2つの言葉を手短かに検討してみます。
まず、「人里離れた」という言葉ですが、元のギリシャ語エレーモスには「人里離れた」の他に「寂しい」「野原の」という意味があります。
「人里離れた」という言葉は普通「人里離れた山奥」とか「人里離れた一軒家」などと、日常生活が営まれている集落からは遠く離れた、というイメージがあると思います。
一方、今日の聖書箇所では、「一行の乗った舟を追いかけた群衆が先回りをした」(33節)ぐらいですので、それほど「人里から遠く離れた場所」ではないように思われます。
もう一つは「休むがよい」というイエスの言葉です。
原語のアナパウオーには「休める、精気づける、安らかにする」といった意味があります。
興味深いのは、小欄が日ごろ参考にさせていただいている雨宮慧神父の2冊の著書「主日の聖書解説<B年>」と「主日の聖書-B年」では異なった見解が示されていることです。
「主日の解説<B年>」には
ここでの「休む」はカ「体を休息させる」ことだけではありません。この語には「真実の喜びや慰めを受けて元気づけられる」という意味もありますから(フィレ7)体だけではなく、心の休息をも表しています。(p.213)
と書かれています。 一方、「主日の福音-B年」では
31節の「休む(アナパウオー)」は...喜びや慰めが引き起こす心の安らぎを意味すぐこともある。だが、ここでは...単に体の休養を意味する。(p.219)
としておられるのです。
この点、「ギリシャ語 新約聖書釈義事典I」にも「身体的休憩が意味されている」とされています。
先週、観ましたように「杖一本のほか何も持たず」(6章7節)、「汚れた霊に対する権能」を授けられて(同)出かけた宣教の旅から戻った使徒たちが心身ともに疲れ果ていたということは容易に想像がつくところですので、やはりこの「休む」には心の休息も含まれていると考えるのが自然なように思えます。
さて、群衆は周りの町々、村々から大挙して集まって来ましたが、彼らの心中にあったのは、今風にいえば「良く当たる占いの先生に占ってもらいたい」「霊験あらたかな先生に病気を治してもらいたい」というものであったでしょう。
そのような人々をイエスは「深く憐れんだ」のでした。
しかし、そこでイエスがとった行動は「教える」というものでした。
集まった群衆にしてみると、このイエスの行動はいわば肩透かしだったかもしれません。
しかし、イエスにとって彼が起こす様々な奇跡は決して「霊験あらたか」さを誇るものではなく、ましてそれを商売道具として金儲けをする手段でもありませんでした。
これは余談ですが、実際、当時は(そしておそらく今も!)そういったことを生業としている人は多かったようです。
イエスが起こす奇跡はすべて「教え」です。
エレミヤが「彼の名は、『主は我らの正義』と呼ばれる」(エレミヤ書23章6節)と預言した人が今まさに迷える群衆を「深く憐れみ、いろいろと教え始めた」(34節)でした。
参考:
雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』教友社
『主日の福音-B年』オリエンス宗教研究所
荒井件献他訳『ギリシャ語新約聖書釈義事典I,II』教文館