十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。(12節)

 

 

マルコによる福音書の3章にはイエスが人々の中から、これと思う12人を選んで「使徒」とした、と書かれています。

 

それは

 

彼らを自分のそばに置くため、また派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるため(14~15節)

 

でした。

 

今日の聖書箇所ではイエスがいよいよ彼らを宣教に送り出す場面が描かれています。

 

7節には

 

十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。

 

とあります。

 

この「遣わすことにされた」ですが、原文を直訳すれば

 

「遣わすことを始めた」

 

となります。

 

組ごとに「権能を授け」(7節)、持ち物や伝道地についての具体的な注意を与えて派遣し始めたということです。

 

「遣わすことにされた」ではそうすることに決めた、というニュアンスになりますが、新共同訳や協会訳で何故あえてそのように訳しているのかは分かりません。

 

8~9節では持ち物について具体的な指示がなされています。

 

履物と杖はOKですが、パンや袋、金の持参は赦しませんでした。

 

雨宮神父は、この厳しい指示について

 

伝道者自身も神の支配への信頼を態度で表さなければならない。彼らの知らせるメッセージが信頼に足る知らせであることを身をもって証すために、パンも袋もお金も持たずに宣教に出る (「主日の福音-B年」p.218)

 

と、しておられます。

 

そこで、2人ずつ派遣されたことの意味を改めて考えてみますと、旧約聖書の申命記に、裁判の証人について

 

二人ないし三人の証言によって、その事は立証されねばならない(申命記19章15節)

 

と書かれているのが思い起こされます。

 

イエスの使徒たちが2人一組として派遣された理由の一つとして、使徒が2人いることによって彼らの証言の信ぴょう性が保証される、とするのは考えすぎでしょうか。

 

続く10~11節では派遣先での注意がなされます。

 

もしある所で、受け入れらず、言葉に耳を傾けられもしなければ、そのbを去って、足の裏をの埃を払い落せ(11節)

 

との指示は、彼らを拒んだ土地は異邦人の土地と見做される、という意味になります。

 

言い換えれば、使徒たちを受け入れる土地の人々は神を受け入れるますが、そうでない人々は神を受け入れない人々ということなのです。

 

参考:

 

雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』教友社

     『主日の福音-B年』オリエンス宗教研究所