わたしはこの地を荒廃させる。彼らがわたしに不信を重ねたからである。」と主なる神は言われる。(8節)

 

今朝の聖書箇所、エゼキエル書15章には新共同訳では「役に立たないぶどうの木」という見出しがつけられています。

 

本ブログの別稿で取り上げますが、ヨハネによる福音書15章ではぶどうの木と枝そしてぶどうの実を使ったたとえが語られています。

 

ぶどうの木、と書かれていれば誰でもたわわに実ったぶどうの実を思い浮かべるのはごく普通のことでしょう。

 

ところが面白いことに今朝のエゼキエル15章は実のことに直接には触れていません。

 

そこでは、森の木々の間に生えているぶどうの木が何かの役に立てだろうか、と問いかけているのです。

 

これについては

 

「エゼキエルは、イスラエルの現状を実をならせない、従って焼かれる以外には何の役にも立たないぶどうの木と見て、第二捕囚(第二次バビロン捕囚。紀元前586年-ブログ管理者註)の必然性を強調する。」

 

と、雨宮慧神父は解説しておられます。

 

何の役にも立たないイスラエルのぶどうの木が豊かに実を結ぶようになるためにイエスが地上に遣わされました。

 

(参考)

雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』教友社

      『主日の福音<B年>』オリエンス宗教研究所