そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、

言われた。(ルカによる福音書24章45~46節)

 

今日(2021年4月17日)の「主日の聖書」で「心の目」と訳されている言葉の原語は「ヌース」(ηουσ)です。

 

『ギリシャ語新約聖書釈義辞典II』(教文館)によると、この「ヌース」(ηουσ)には、

 

知性、理性、思い、心、考え、思慮、賢さ

 

といった意味があります。

 

雨宮慧神父はそれを大きく次の3つに分けています。

 

1. 知力、理性

2. 身体よりも高い、精神的な部分としての心

3. 心構え、考え方、思い

 

その上で、雨宮神父は今日の聖書箇所について

 

心の目が開かれるとき、復活したイエスに出会い、心が新たにされ、心構えや姿勢が変えられてゆきます。

 

と結論づけておられます。

 

ところで、「心の目を開いて」という表現ですが、原文には「心の目」とは書かれていません。「ヌースを開いて」と書かれているのです。 

 

代表的な英語の聖書でもこの箇所は

 

Then opened he their understanding (KJV)

 

Then he opened thier minds so they could understand the Scriptures (NIV)

 

Then he opened thier minds to understand the scriptures(NRSV)

 

などとなっており、he opened their mind's eyesとはされていません。

 

実は、日本聖書協会の聖書でもかつての「口語訳」では

 

「彼らの心を開いて」

 

となっていたのですが、その後の新共同訳で

 

「心の目」

 

と改訂されたのです。

 

これは恐らく、日常の日本語の中で物事を正しく理解しようとする態度として「心の眼を開く」という言い方が良くされるところから、そのように改訂されたのでしょう。

 

ただ、小欄として疑問に感じるのは、今日の聖書箇所において、開かれるべきは目なのか、という点です。

 

先週の「主日の聖書」には

 

「見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネによる福音書20章29節)

 

とのイエスの言葉がありました。

 

信じるために必要なのは実は「心の眼で見る」ことではなく、「心の耳で聞く」ことなのかもしれません。

 

最後に、一昨年末、日本聖書協会より新たに刊行された「聖書協会共同訳」では

 

「聖書を悟らせるために彼らの心を開いて

 

と、以前の「口語訳」と同じように訳されていることを付け加えておきます。

 

(参考)

荒井献・H.J.マルクス『ギリシャ語新約聖書釈義辞典II』(教文館)

雨宮慧『小石のひびき-主日福音のキーワード[B年]』(女子パウロ会)