闇の中で驚くべき御業が
忘却の地で恵みの御業が
告げ知らされたりするでしょうか。 (13節)
だいぶ以前ですが、ある牧師がいわゆる「イサクの奉献」について、
「アブラハムは神がイサクを復活させてくれると信じていたので喜んで捧げようとした」
と解説しているのを耳にしました。
この牧師は新約聖書の次の個所を根拠とされたのでしょう。
アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。(ヘブライ人への手紙11章19節)
確かにキリスト教の立場からは正しい見方かもしれません。
しかし、旧約聖書をユダヤ教の伝統の立場から見た場合に果たしてそれは妥当なのかどうか疑問です。
「イサクの奉献」のテーマは不条理としかいいようのない神の命令に不条理と知りつつも応えようとするかどうか、ということなのではないでしょうか。
雨宮神父によると、「復活」は旧約聖書においては仄めかされる程度で、バビロン捕囚以前に書かれたものではむしろ復活はきっぱりと否定すらされています。
今日の聖書箇所である詩編88編11~13節などがその良い例といえるでしょう。
旧約の人々にとっては死後になって初めてではなく、「今ここ」で神に出会うことこそ大事だったのです。
紀元前2世紀頃に書かれたとされるダニエル書などのいわゆる「黙示文学」で漸く復活が語られるようになります。
絶望的な現在の状況に対し、「別世界への蘇生としての復活」、「神の介入による新たな世への希望」が切実なものとされたのです。
(参考)
雨宮慧『主日の聖書解説<B年>』教友社