3 ターニング・ポイント
―閃光の中で
2048年 東京 神田神保町
宮野小春は、土曜の昼下がりに井上彰志に誘われて訪れた三省堂書店の入り口で、彰志が会計を済ませて出てくるまでの間、空を見上げていた。
梅雨入りしたにも関わらず、まるで夏を先取りしたかのような群青色の空だった。しかし、彼女の心中は、決して快晴―穏やかとはいえなかった。当然だ。何しろ今は戦時なのだから。彼女の祖国
―日本国は現在、国連安保理で「異邦人」と呼称されることが決まった地球外生命体との間で、47年ぶりの、異民族を相手にしたものとしては103年ぶりの戦争を行っている。
否、「戦争」とは言い切れないかもしれない。何しろ「敵」である「異邦人」は宣戦布告を行っていないし、国家として日本を―人類を攻撃する意図があるかも不明なのだ。
しかし、小春にとってこの状況は紛れもなく「戦争」であった。彼女の親友は自衛官なのだ。自分の見知った、親しい人間が戦場にいる。これ以上のリアリティを与えるものはない。
小春は心ここにあらずといった様子で街を眺めた。皆、平時と変わらない様子だが、どこか茫漠とした不安感が漂っている。
―皆無理しているのだ。小春はそう思った。何しろ「異邦人」とみられる謎の物体が、宇宙ステーション群に直撃。数千人の死者が出て一週間しか経っていないのだ。―無論、日本人の死者も決して少なくない。国連ではこの事態に対応すべく、主要国と兵力提供協定を結んだうえで、憲章第7章に基づく安保理指揮下の国連軍が史上初めて編成された。
―これには自衛隊も含まれている。
彰志が出てきた。彼は、ひどく思いつめたような、ヒロイックに言えば悲壮な覚悟を決めたような顔をして言った。
「あの、九段下の駅まで歩きませんか?」
普通なら神保町から一駅分地下鉄に乗るところ、すべて歩きで行こうと、そういう提案だった。
小春はなんでそんな顔をしてるんだろうと訝しく思いつつも、じゃあそうしようか。と了承した。九段下駅まで、約800メートルの道のりである。
三省堂書店を出て左折し、都道302号を歩く。ここ神保町は古くから「本の街」として栄え、出版社の建物も数多い。通りに面した古本屋はそれぞれ得意なジャンルがあって、店先に露店のようにして本を並べている。一見ぞんざいに扱われているようにすら思えるその本たちを、年を重ねた男性たちが立読みする。そういうなじみ深い光景が見えないのも、小春を不安にさせた。それから、この街を構成するもう一つの要素―学生たちの姿も見えないが、今日が土曜のせいであろうか。小春と彰志の間に会話はない。お互い何を話すべきか見つけられなかったのだ。
暫く進むと、神保町の交差点が見えてきた。丁度青信号に変わったところらしい。都道302号と都道301号―白山通りが交わるこの交差点は、なかなか信号が変わらない。ラッキーだなと思いつつ、小春は、右隣に立つ彰志を横目で見た。同時に、遠くのジェットコースターが視界に映る。
「ねぇ、彰志君はラクーア行ったことある?」
ラクーアというのは、そのジェットコースターがあるアミューズメント施設の名前である。小春は以前、涼子と服を買いに行ったことがあった。
「え? ああ……名前は知ってるけど、行ったことないですね……」
なんとも不愛想な答えであった。「いつ行ったの?」とか「よく知らないけどどういう所?」と聞けるほど、彰志は器用な男ではない。小春の方も、「それなら今度一緒に」といえるほど、大胆ではなかった。
―あるいは中学時代の彼女なら違ったかもしれないが。
しかし、それだけの会話でも、横断歩道を渡りきるには十分だった。
それでもなお、九段下駅までは残り400メートルある。小春は次の話題を探して、彰志に訊いた。
「彰志君、今日は何買ったの?」
「あ、これです。銀英伝―銀河英雄伝説。結構巻数があるので揃えるのに時間かかりました」
―あ、りょーちゃんが言ってたやつだ。
「その本ね、中学の友達が面白いって言ってた。彰志君と同じでね、ミリタリーとかSFとか好きでね。女の子なんだけど」
それを聞いた彰志は、なんの悪気もなく訊いた。
「それは珍しい。今でも仲いいんですか?」
「仲がいいか、か。」
小春は一度言葉を切り、遠い目をして続けた。
「私はそのつもりでいるけど、向こうはどうかな。彼女、自衛隊に入って、今宇宙に居るんだ。何してるだろ。連絡できないからなぁ……」
「それは……すみません。」
「いいの、気にしないで。こっちこそ、こんな話してごめん」
二人の間を、重苦しい空気が支配する。ちょうど、学校の前を過ぎ、俎橋が架かる、首都高の高架下に入ったところだった。五月蠅い車が通らなければ、川からの風が涼しい所だ。
小春は気分転換のために、何気なしに彰志に訊いた。
「そういえばさ、なんで今日私を誘ってくれたの?」
彰志のような男にとって、この手の質問は純真であるがゆえに暴力的だった。
「そ、それは、宮野さんと行きたかったから、です……」
やはり彼は素直な男である。
「そっか、私と行きたかったから……ふふっ、何だか恋人みたい。あ、ごめん変なこと言って」
彰志の少し前を歩きながら小春は言った。暴力的を通り越して残虐な言葉だった。しかし、これを聞いた後の井上彰志の行動は、それまでの彼の人生で、最も男らしかったといえる。
「恋人では、ダメですか。今日私は、貴女に告白をするために、こうしてお誘いしたのです」
彼は叫ぶつもりで、宮野小春というある意味で悪魔的な女に、自らの想いを打ち明けた。
その声は彼の想定よりずっと小さかったけれど、車が通らなかったおかげで涼風に乗り、小春まで届いた。彼女がその言葉の意味を理解するまで、多少時間がかかったが。
「あ、そっか、そういうことか。いや、こんなこと言うのもおこがましいけど、なんかそんな気はしてたっていうか、むしろそうだったら良いなみたいな気持ちもあって、あの、つまり、その、私なんかで良ければ、よろしく!」
彼女は顔を赤くしながら、絞り出すように早口で言った。
その答えを聞き安堵した彰志は、小春の隣に行こうと歩きだして―転倒した。気持ちが空回りしたらしい。
「だ、大丈夫⁉」
小春は駆け寄り、常に携帯しているポーチから消毒液と絆創膏を取り出して、手当てした。―彼女にはこういう細やかなで女性的な部分が多分にあった。
「はは、しまらない。情けないなあ……ありがとう、宮野さん」
彰志はそう言って微笑む。
「小春でいいよ。こちらこそありがとう。彰志君に好きって言ってもらえて、なんだかすごく安心した」
小春はそう言って微笑み返す。
小春は彰志の照れくさそうな横顔を、自身も同じような顔をして眺めながら、九段下駅へ降りて行った。