人間、いつかは死ぬ。
この仕事を始めてから廣川英器は、そのことを実感するようになっていた。
ほんの数年前、大学生だった頃には、考えもしなかった。
そんな風に考えるようになったのは、自分の人生の長さからいって、あまりに多くの人たちの『死』に接してきたからだ。
大学を卒業して就職したのは、保険調査会社だった。
保険は、言ってみれば、ギャンブルだ。保険会社は胴元になり、顧客と賭をする。賭の対象は、車、家なんでもあるが、いちばんエキサイティングな賭の対象は人間だ。
客は、契約期間内の人間の命を賭ける。賭けの対象は、愛する家族の誰かだったり、自分だったりするが、いずれにしても客が賭けるのは対象の『死』だ。
それを生命保険という。
保険は、簡単に八百長ができてしまうギャンブルだ。
客が、賭けの対象に影響をもてる場合、結果を操作できてしまう。それでは、保険会社は儲けられない。
英器の仕事は、顧客が八百長をしてなかったかを調べ、会社が損をしないようにすることだ。
ずるをする客は、あらゆる知恵を使って、保険会社に勝負を挑んでくる。
英器は会社の人間として、全力でその相手をして、不埒な思惑をつぶさなければならない。
そしてそれは、その一度の契約に関してだけのことではない。
一度でも、その不正を見落とせば、会社は悪意をもった人間たちのカモにされるのだ。
この真剣勝負に、英器はとびきりの興奮を覚えた。
英器には独特の才能があった。
犯罪者を見抜く「目」だ。
生まれ育った環境がそれを育んだ。小さい頃からそういう人を見てきた英器は、外見では人畜無害そうな人の中に、悪魔のような心が宿っていることを知っていた。だから、誰よりも、時には警察よりも、早く不正を見つけることができ、相手を追いつめることができた。
犯罪者を追い込むという点では、警察の捜査に近い。
だが、英器の仕事は、逮捕でも、報復でもなく、会社に損害を出させないことだ。
保険金詐欺、保険金殺人を、素直に認める人間はいない。
たいていはとぼけたり、逆ギレしたりする。
そういう人間を前にすると、英器は闘志をたぎらせた。
目には目を。そのために英器は、あらゆるコトをした。
その人間のすべてを調べ上げ、それを使って揺さぶりをかけて、保険金受け取りをあきらめさせる。
だが、矛盾するようだが、保険会社はいざというときの支払いが渋いと、営業に支障が出る。実際、他社よりも保険金が出やすいことを売りにしている。だから、時にそれが保険金詐欺だと分かっていても、どうにもできないことがある。
英器にとって、それは屈辱であり、恐怖だった。
お金のために、人間の尊厳がいとも簡単に踏みにじられ、消されていく世界。
英器の目には、世界は冷たい「氷の世界」にしか映っていなかった。
そういう世界に生きている自分だから、いつその餌食になってもおかしくない。
『死』は無情にも、いま英器にも訪れようとしていた。
『・・・そうか、これが死か』
恐怖は一瞬だけだった。
冷たく暗い海に沈みながら、さっきまで自分がいた世界とは違う世界に向かっていると、英器は分かった。
だが、心はとても平穏だった。
右肩に衝撃を受けるまで、全身を覆っていた恐怖だが、今は完全に消えてしまった。
怒り、恐怖、同情。これらの感情が混じった目で、英器は、<そいつ>を見ていた。<そいつ>の事だけをこの数週間、考え続けた。自分を殺した人間のことを。
だが、今、死に向かう英器の頭には、自分を殺した人間のことよりも、自分が愛した女の姿しか思いだせなかった。
暗い海の中で、英器は、彼女の微笑みを見えた。彼女の声を聞いた。
『・・・とう・・・こ・・・』
英器は、彼女の名前を心の中でつぶやいた。
そして、廣川英器の人生に幕が下りた。