シー・ユー・アゲイン雰囲気 | 脱腸亭日常 ~MY TESTAMENT of trifling beetle~

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基本毎日更新。名誉も金も、素晴らしい音楽を作り人々を感動させようという気持ちもない、極めて不心得なアマチュアミュージシャンであり、アマチュアアーチストtrifling beetleの遺書。
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シー・ユー・アゲイン雰囲気

 

 

 

森田芳光監督の『の・ようなもの』

1980年代初頭の空気感を代弁した怪作だ。

怪作にして名作、いや、迷作。

とにかく「地獄の黙示録」「エイリアン」とともに、自分の中で定期的に見たくなる作品。

 

主人公の志ん魚高座に上がるが真打ではない

わば落語家であるが肩書きとして掲げられるほどでもない落語家「の・ようなもの」

この時代こういう「コピーライターの・ようなもの」、「ミュージシャンの・ようなもの」、たくさんいたことだろう。

まあ、今でもこういう人はたくさんいるから、この頃に特化した出来事では、勿論ない。

むしろ、今のほうがそういう「の・ようなもの」は、魑魅魍魎的に、果てしなく夥しく、うごめいているのかもしれない。

石を投げれば三人くらい当たりそう(笑)。

 

さて、くすぶっている20代中頃の若手落語家たちが繰り広げる、恋愛「の・ようなもの」

伊藤克信秋吉久美子2人が絶妙なのだ。

絶妙にうまい演技をしているのではなく、絶妙にこの時代、この頃の空気感を醸し出している。

何物でもない私たち感が、悲しいくらいに頭を揺り動かす気がする。

モラトリアムってこんな感じだからやめられないんだよな。

 

 

 

この映画は、撮影所に属さない、映画監督「の・ようなもの」森田芳光をメジャーな世に知らしめたエポックメーキング的作品と言える。

金字塔だ。

これがなけりゃ「家族ゲーム」も当然なかった。

「ハル」もなかった。

 

尾藤イサオのエンディング曲「シー・ユー・アゲイン・雰囲気」がまたいい味を最後に沿える。

とどめの一撃的な。