ごく一般的に言って、悪口を言うのは愉快なこととされている。清少納言の「枕草子」にも、悪口ほど楽しいものはない、なんて書いてある。僕の場合、悪口はあまり言わないようにしているし、人が誰かの悪口を言っているのを聞くのも、好きではない。倫理的な問題というよりは、趣味の問題のようだ。


先日若い女性と食事をする機会があったのだけれど、その人がずいぶん悪口が好きな人だった。嫌いな人も多いし、嫌いな食べ物も多い。そうした話をしているとき、実に楽しそうにしている。人の話を聞くのが好きな僕も、少し疲れてしまった。


どうせ聞くなら、その人の「好きなこと・好きな物」の話が聞きたい、と思う。同じ話でも、話し方次第で、ネガティブにもポジティブにもなる。たとえば、「仕事をがんばらない人が嫌い」という話を裏返せば、「がんばる人が好き」ということになる。「野菜が嫌い」という話をくどくど力説するぐらいなら、「その代わり肉が好き」と開き直ってくれたほうが、聞く方は気が楽である。


……と、ここまで書いて気がついた。僕自身もまた、「嫌いな物の話をする人が嫌い」というネガティブな文章を、たった今書いているではないか。でも、だからといって「好きな物の話をしている人って素敵ですね」なんてきれいごとばかり書いてあっても、つまらないだろう。結局、清少納言女史の看破したとおり、悪口が楽しいという結論になるのか。


尤も「枕草子」全体を通して読むと、意外に悪口は少なくて、「かわいいもの、美しいもの」を愛でている章がほとんどなんですね。「春はあけぼの」から始まる有名な冒頭部分も、それぞれの季節の美しさを十分に褒め称えたあと、最後に「昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりて、わろし」と、軽い悪口を置いてある。


こういう風に、ここぞというタイミングでピリッと辛口の悪口が言えるのが、本物の大人というものなのかもしれない。