芸術家が作った作品、たとえば音楽とか小説とか絵画を、どの程度その制作者の人格と結びつけて享受すべきなのだろう。これは意外に難しい問題だと思う。
たとえば、モーツァルトの未発表の交響曲が発見され、これが非常に芸術性の高いものだとする。言うまでもなく、この音楽の持つ芸術的価値は極めて高い。しかし、これがもし、21世紀の作曲家がモーツァルトの作風をまねて作った贋作だと判明したら、どうだろう。おそらく誰もこの作品には見向きもしなくなくなるに違いない。
あるいは、制作者の人格に問題がある場合。若い頃にちょっとやんちゃをした、とか女遊びにふけった経験がある、ぐらいならいい。深刻な犯罪、殺人とか政治的犯罪を犯した人が非常に優れた作品をつくったとして、僕らはそれらを素直に評価することができるかどうか。もしもヒトラーの画才が超一流で(実際はへぼ画家だったから独裁者になったようなものなのだが)、彼の描いた風景画がゴッホと並ぶような優れた作品だったとしても、僕はそれを無心に鑑賞し喜ぶ気にはなれないと思う。
「月の光」で有名なフランス印象主義の作曲家・ドビュッシーは生涯で二人の女を自殺に追いやった放蕩者だった。白人ジャズピアニストを代表する巨匠ビル・エヴァンスは繊細かつぬくもりあふれる魅力的なプレイをする人だったが、麻薬に溺れ、これまた女性関係をこじらせて自殺者を出したという。あるいは太宰治は? 泥棒詩人として有名なフランソワ・ヴィヨンは?
芸術家の経歴や人格を知ることは、むろん悪いことではない。太宰が心中未遂の常習犯であり、その死も心中によってもたらされたという史実を知っているからこそ、僕らは彼の小説を読むときより一層心を打たれることになる。でも、そのことにとらわれ過ぎてしまうと、太宰の小説の持つ知的な部分、ユーモラスな部分といった美点を見落としてしまう恐れもあるわけだ。
要するに、一人の人間が一つの作品を鑑賞するときには、必ず複数の感じ方、考え方がなければならないのだと思う。妥協的でぼんやりした結論だけれど、そう考えざるを得ないのだ。まずは直感で感じ取り、次に分析的に味わう。それを踏まえて、再び感じ取る。その繰り返しによって、作品を深く味わうのが、理想的な鑑賞者の態度なのだろう。そのどちらかしかできない人は十分に作品の魅力を知ることができない人であり、また、そうした繰り返しの鑑賞に耐えられない作品には、その程度の価値しかないということなのだろう。