必要以上の自粛ムード、というのものにははじめから違和感を感じていた。


それを明確に意識したのは、震災から数日経った土曜日の夕方のことだった。大阪に住んでいる友人から消息を尋ねる電話がかかってきた。東京は幸いたいした被害もなく、もちろん僕も無事である。そう伝えたら、友人はほっとした様子だった。


久々の連絡だったので、こちらも向こうの近況を聞いてみたら、結婚して1年になる奥さんと、さっき大喧嘩をしてきたところだ、と言う。その日、前からの約束で職場の仲間と酒を飲みに行こうとしたら、「こんなときにどうしてそんな不真面目なことができるのか」と、奥さんに叱られたというのだ。


友人が正しいと僕は思った。余震が続く東京だったらまだしも、大阪は全く無事なのである。その調子でみんなが「しばらく酒を飲むのはやめよう」と言い出したら、全国の飲食店は残らず倒産してしまう。資本主義社会において基本的に消費は美徳であり、節約は消極的な「悪」なのである。じっさい、震災の影響でイベントが中止になったせいで、早くも潰れてしまったイベント会社もあるという。


震災の影響のない地域では、みんな適度にお金を使って遊んだほうがいい。それが結果的に、日本経済の繁栄、ひいては被災地の早い復興につながる。



……という理屈は、もちろんわかる。でも、どこかで引っかかる気もする。同じ日本の中で、一日に数個のパンと少しの水しか飲めない地域がある一方で、「ゼイタクしなければならない」という価値観によって成り立っている、大多数の都市がある。僕らがいくら節約したからといって、その削減された「ゼイタク」をそのぶん被災地に届けることなんてできはしない。それなのに、当たり前のように東京でいつもどおりの食事をしていることに対して、なんだか少し、うしろめたい気がするのはなぜだろう。



書きながら、ある文章を思い出した。新渡戸稲造の「武士道」の一節だ。


「武士道」というのは、大正~昭和にかけて政治家・思想家として活躍した新渡戸稲造が、西洋人向けに日本人の精神構造を紹介するために書いた本である。新渡戸稲造、と言っても今の若い人たちはピンと来ないかもしれない。樋口一葉の前に、五千円札に印刷されていた人である……なんて説明をしていると、自分も歳をとったんだな、と思いますね。


「武士道」に戻ろう。


新渡戸は、日本人特有の道徳観を示すエピソードとして、次のような話を書いた。炎天下の下、二人の日本人が出会う。二人は知人で、立ち話をする。一人は日傘を持っているが、もう一人は持っていない。こういうとき、日本人は、持っている日傘を下ろし、相手と一緒に暑さに耐えようとする。合理性を無視したこの種の「礼」の感覚は、西洋人を驚かせるに足るものだが、日本人にとっては当たり前である、と新渡戸は言う。それこそが、宗教的拘束のない日本人を道徳的に育ててきた「武士道」なのだ、と。



繰り返しになるが、必要以上の自粛は有益ではない。僕らが日傘をおろしたところで、日傘を持たない人たちは救われない。彼らが早く自身の日傘を差せるようになるための努力を、我々はすべきだ。ただ、胸の中のどこかに、日傘をそっとおろして微笑む心意気を残しておいても、バチが当たることはあるまい、と思う。