ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂<う>しと見し世ぞ 今は恋しき
――藤原清輔
【現代語訳】
このまま命が続いてゆけば、
いつかはこのつらい日々も
なつかしいと思えるときがくるのでしょうか?
そう、かつてあんなにも嘆き悲しんだ日々が、
今となっては恋しくさえ思い出されるように……
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久しぶりの「小倉百人一首」シリーズである。日本中が揺れ動いているこんなときだからこそ、何か元気の出る歌はないか、と考えたとき、真っ先に思い浮かんだのがこの和歌であった。
一応、つたない現代語訳もつけてみたが、原文をざっと読み下せば大体の意味はおわかりになることだろう。あえて解説することがあるとすれば、第2句の「や」が反語の助詞で、推量の「む」とあわせて「~だろうか?」という疑問の意味をつくることぐらいか。
どんなにつらい経験、そのさなかにいるときには「死んだほうがマシだ」とさえ思える時でさえも、数年、数十年と時間が流れることによって苦痛が中和され、場合によっては懐かしく、美しい思い出に変化しさえする。おそらく、どんな人にもそのような経験があると思う。
この歌の優れたところは、たった31文字でこの時間というもののもつ不思議な作用を見事に看破した点にある。思い出はいつも、時の彫琢を受けて美しく結晶するものだ。苦しんだ経験は、決して無駄にはならない。悲しみは、時に人を傷つけ、殺しもするが、それを乗り越えたときにはこの上ない力の源となるものだ。
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もう一つ、この歌については言っておきたいことがある。それは、この歌が恋歌としての層を隠している可能性があることにほかならない。
基本的にこの歌は人生一般の苦について語った歌と考えられているし、「新古今和歌集」の中でも「雑歌」の中に収められている。歌い手の藤原清輔自身、不遇の人であった。歌道の名門に生まれながら、父・顕輔との不和のため、顕輔の編纂した勅撰和歌集「詞花集」には一首も採用されず、その後も庇護者となった二条天皇が崩御したためついに歌人としての栄光を手にすることができなかった。――このような経歴を見れば、「ながらへば……」と嘆息するのも無理はない気がする。
けれども、王朝和歌というものは一首のうちに複合的な意味を込めるのが常道であったし、とりわけ「新古今和歌集」の時代にはそうした象徴的な詩法が隆盛を極めていた。一見、自然の情景を描写しているだけに見える歌も、実は巧妙に仕組まれたラブレターだったりする(丸谷才一氏に言わせれば、あの「秋の田の……」という百人一首冒頭の歌さえも、秘められた恋歌であるという)。この歌も、そうした重層的な意味を持っていたとして、不思議はない。
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キーワードは、僕の見たところ「世」という語である。古文の授業で習った人も多かろうが、「世」という言葉は「世の中一般」という意味だけでなく、「恋愛」をも指す。また、「しのぶ」「恋し」といった、恋歌を連想させやすい単語がちりばめられているところも、この推理を補強する材料になる気がする。
とすれば、この歌の主人公は報われぬ恋に悩む男ということになる。この、おそらく知的で薄幸な男は、たったいま体験している苦しい恋を、「つらい恋をしたことは以前にもあったではないか。それも今では、美しい思い出になっている。いつかは時が、すべてを解決してくれるのだ……」と自ら慰め、励ましているわけだ。
もちろん、そうはわかっていても、人間というのはそれほど強い生き物ではない。いつかは立ち直れる、と知っていても、目の前にある恋のつらさに打ち克つのはなかなか難しいものだ。そうした複雑な感情まで盛り込んだ歌だと見れば、一層味わい深くなるだろう。