いちぢくの葉
中原中也
夏の午後よ、いちぢくの葉よ、
葉は、乾いてゐる、ねむげな色をして
風が吹くと揺れてゐる、
よはい枝をもつてゐる……
僕は睡らうか……
電線は空を走る
その電線からのやうに遠く蝉は鳴いてゐる
葉は乾いてゐる、
風が吹いてくると揺れてゐる、
葉は葉で揺れ、枝としても揺れてゐる
僕は睡らうか……
空はしづかに暗く、
陽は雲の中に這入ってゐる、
電線は打ち続いてゐる
蝉の声は遠くでしてゐる
懐かしきものみな去ると。
日本の夏のけだるい午後の空気を、ここまで生々しく切り取った文章というのは、他にあまりないのではないか。ここに置かれた世界は、前の記事で紹介した同名の詩とは全く異なった暗いあきらめにひたすら染められているが、いちぢくの樹に病的な繊細と無垢のイメージを見る点は共通しているようだ。風が吹き、枝はうちふるえる。蝉の声が頭上から降り注いでくる。だのにこの空間はなぜ時が止まったかのように停止していて、そして静かなのか。
「懐かしきものみな去ると」。末尾でひっそりと打ち明けられた詩人の本音に触れ、我々はようやく悟る。この詩がこんなにも静かなのは、全てが既に失われた後だったからなのだと。
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※出典はこの本。ちなみに、もうひとつの「いちぢくの葉」は上巻に掲載されています。
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