日本人がもしも「蹴鞠」という文化を継続していたら、

今頃日本のサッカーレベルはもっと高かったはずだ。


などという冗談を子供の頃よく耳にしたものだが(僕だけか?)、

実際にそのシミュレーションが正しいのかどうかは眉唾物だと思う。


蹴鞠のルールのことはほとんど知らないのだが、

たぶん蹴鞠というのは相手に「勝つ」ことを絶対目標として戦う

スポーツとは少し違ったものだったのではないかと思う。

歌合いなんかと同じで、雅な遊技としてたしなんでいたといったところだろう。


そもそも、日本にはもとよりスポーツという概念は(たぶん)なかった。

ヨーロッパでは古代ギリシャで既に円盤投げだの徒競走だのが盛んに行われていて、

その後サッカーやテニスをはじめあらゆる球技が発明されたというのに、

日本で生まれた国際的なスポーツといえば、

せいぜい柔道くらいのものである。


そして、柔道だってあれはスポーツというより武道だ。

今でこそ精神修養だの護身術だのありがたい看板がかけられているが

要するに白兵戦で人を殺すための技術を洗練させたものがそれだ。

どうも西洋的なスポーツマンシップとは程遠い気がする。


柔道以外を考えてみてもい。

相撲、空手、剣道、弓道、馬術など、

日本人が古来たしなんできたスポーツはどれも武術である。

心身を鍛えるという目的に鑑みればそれらがサッカーや野球に必ずしも

劣るとは思えないが、

どうも発端が野蛮なのが気にかかる。洗練されていない。


違うか。

問題なのは野蛮かどうか、ではないのかも知れない。

日本人は日実用的な技術を磨くということを嫌ったのかも知れない。

確かにいくらうまくバナナ・シュートが撃てたとしても日常的に役立つことはほとんどないが、

巧みに人を投げ飛ばす技があれば、

気に入らない奴から受ける暴力を防ぐことぐらいはできるかもしれない。

剣道や弓道は今は時代遅れになってしまったけれど、

文明開化以前だったら兵士として重宝がられるスキルには違いなかったろう。

要するにどれも実用と結びついているのだ。


実用と結びついているといえば、スポーツの話ばかりではない。

たとえば芸術品にしてみても同じことで、

日本には西洋のように純然たる絵画を愛でる文化がもとよりない。

屏風というのは大雑把なつくりをした日本家屋で視線と風を防ぐ、一種の壁である。

掛け軸になるともう少し装飾品の色が強いけれど、

季節ごとに取り替えて楽しむあたり、

これもやはり壁紙などに近い生活感が漂ってはいまいか。

塗り物だの焼き物だのといった調度品が骨董である以前に器物であるということは、

今さら僕が念を押すまでもあるまい。


文学だって同じである。

たとえば和歌というのはもともと国家の豊穣を祈る呪術的な性質を帯びたものであったし、

後にその呪力を借りて恋の成就や出世を願うといった使われ方がなされた。

そんな堅苦しいことを言うまでもないか、

和歌というものが挨拶代わりに日常的に=実用的に使われていたことは、

『源氏』だの『蜻蛉』だのを少し見れば分かることである。


まあこのあたりの事情は別段僕の発明した理論などではなくて

僕の敬愛する丸谷才一さんの意見を剽窃しながら話しているわけだが、

日本人の芸術観が呪術と同時に生活様式とも密接につながっているという事実は

つきつめるほどに面白い。


僕はこれに少しだけ付け加えて、

日本人のスポーツ観について朦朧と思いをめぐらしているわけだ。


そういえばこれも丸谷さんが書いていたのだが、

西洋におけるスポーツの発祥にもやはり呪術的な要素があるのだそうで、

とりわけサッカーというスポーツにはその色彩が濃いのだという。


あれはもともと、村同士がその覇権を賭けて対決するという意味を持ったもので、

それ自体、村の繁栄を祈る儀式的なものであった、

というのがその論旨であったと記憶する。


だから、というのは短絡的だが、サッカーでは手を使わない。

手というのは、言うまでもなく人間を他の動物と隔てる一番大きな器官であって、

人間にとって最も大きな道具である「手」を使わないということは、

それ自体理知的な文明に逆行する意味を含んでいるのだ。

高度に文明の発達した国からそうでない国まで、

サッカーが世界でいちばん競技人口の多いスポーツである理由の一つは、

ここにあるのではないか。

そんな風に丸谷氏は推理していた。


ちなみに、あれだけあらゆるスポーツが発達しているアメリカで

サッカーがいまひとつはやらないのは、サッカーの隠し持ったその

反文明性、非効率性が原因なんじゃないかといわれているらしい。

確かに、90分もかけて1点や2点をやっと動かすなんて、

効率的とはお世辞にもいえない。

1試合で100点動くバスケットボールの方が、ずっとアメリカ的なのである。


いちはやく近代化に足を踏み入れた西洋のスポーツでさえこのような呪術性をはらんでいるのだから、

日本のスポーツがそうであるのは論を待たない。


一番分かりやすいのは、やはり剣道か。


何しろ、日本人にとって刀剣というのは既にそれ自体一個の美術品である。

鎌倉時代随一の歌人であった後鳥羽上皇がそれと同時に刀を偏愛した武人であったという事実は、

日本人にとっての刀剣観を象徴付ける事実であろう

(天皇家の家紋が菊になったのは、菊好きの後鳥羽上皇が自身の刀に菊の紋を彫りつけたことが

発端なんだそうである。これは余談であるが)。


それどころか、刀はそこに民族の魂を見出すべき国家の象徴にさえなり得るものである。

戦時中、さほど役にも立たぬ日本刀を日本の将校がありがたがって腰から下げ、

必要に応じてそれを振るって指揮したのも、

わが国特有のおまじないであった、と丸谷氏は言う。

そんな不合理な国がアメリカなどに勝てるはずがなかったのだ。


現代において剣道に打ち込む人たちがそのような呪術性にとらわれている、

とは思わないが、まあ他のスポーツと比べるとやはり精神論的な部分にまだ

多くを支配されているのではないかという想像は容易につく。

真剣に打ち込むほど、それは徐々にスポーツとしての趣を失い、

文字通り「真剣」の持つ血なまぐさい呪術性、そして芸術性が立ち上がってくる。

そんな気がする。



長々と書いてきていい加減話がそれまくってしまい、

はじめに何を言おうとしたのかすっかり忘れた。


最初に断っておけばよかったのだが、

タイトルにあるとおりこれは井上雄彦の描いた漫画「バガボンド」を読んだ後にぼんやり抱いた感想である。

知っている人も多いと思うので贅するのも気が引けるが、

「バガボンド」というのは宮本武蔵の波乱に満ちた武芸者人生を描いた物語であって、

主人公たちは始終互いに斬り合い、殺しあっているという話だ。


何故人を殺し続ける男の話がこれだけ現代人に受け入れられるのか、

そして時には強烈な感動をすら与えうるのか。

と不思議に思っていると、こんなながったらしい駄文が出来た。

ある程度の答えは出たようでもあり、結局なにもわからなかったようでもある。

が、まあいい。

僕はまだ仕事をしなければならないのだ。


最後にふと思い出した漫画のワンシーンについて書く。

正月早々、宮本武蔵と吉岡伝七郎という偉い武芸者が決闘をするというので

暇な町民が人だかりをなしてこれを見学しにくる。

それを見た沢庵という坊さんが

「正月早々、人が斬り合うところを見に集まるなんて世の末だ」

みたいなことを皮肉につぶやくのだが、

あれは今で言うところこのスポーツ観戦に近いものなのかも知れない。

当時日本人には他にスポーツという概念がなかったのだから、

たまにしか見られないそうしたリアルな戦いを目の当たりにできるのは

庶民にとって貴重な機会であったろう。

それは恐ろしく低俗な欲求の発露であるのと同時に、

どこかに神秘的な、常人の手の届かぬ高みの存在を思わせる不思議な体験であったろう。


誤解を恐れずに言うと、19世紀までは戦争にも決闘にも美学があった。

悲劇の中に芸術が生じる余地があった。

だが、現代において悲劇は死んだ。残されているのは悲惨ばかりである。

たとえば今の世に武蔵と小次郎が切り結んだところで、

ヤクザの出入りとなんら選ぶところはない。

市民にしてみれば物騒なばかりである、芸術どころの話ではない。


その代償として、20世紀から21世紀を歩いて来た我々は

夢中になってスポーツ選手たちの「決闘」に見とれるんだろう。

時に、スポーツが原因となって本物の戦争がおこってしまうのも、

あながち偶然や国家の政略と決め付けられないかも知れない。