台風が近づいているらしく、ここ大阪ではかなり風が強くなって来ている。さっき、友人からメールが来て、
「台風が来るとそぞろ神にとりつかれたみたいで、じっとしていられなくなる」
とあった。
僕自身も、台風というのは、割りと好きである。
だが、その感じ方はこの友人とは対照的なものだ。電線のうなりやガタガタした物音が高まってくるのにつれて、次第に心がしんと静まって、落ち着いてくる気がするのである。ものうい無風の夜よりもずっと、深く眠れる気がする。
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幸いにして、1000年ほど前、それと少し似たような感覚を言葉に残してくれた人がいる。その名も、清少納言。
七月ばかりに、風いたう吹きて、雨など騒がしき日、おほかたいと涼しければ、扇もうち忘れたるに、汗の香すこしかかへたる綿衣(わたぎぬ)の薄きを、いとよくひき着て、昼寝したるこそ、をかしけれ。
【現代語訳】
七月あたりの、風がひどく吹いて、雨などの騒がしい日、大体においてずいぶん涼しいので、扇もつい忘れているときに、汗のにおいの少しこもっている綿衣の薄いのを、口元までしっかりひきかぶって、昼寝しているときの気分こそ、最高だ。
――「枕草子」第41段(全文)
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格調高い古文で書かれているからといって怯んではいけない。訳文を見ていただければ分かるとおり、要するにこの宮廷有数の官女は「お昼寝って最高!」と堂々と宣言しているだけのことである。ただし、このぐうたらぶりは清少納言女史に限ったことではなくて、概ね平安貴族というのはろくに仕事もせずに遊び暮らしていたふしがある。
旧暦の七月は今の八月に当たるから、ちょうど今ごろの季節。ここで言っている風雨とは、明らかに台風を指したものだ。状況は少し違うけれど、今僕が強い夜風に耳を澄ませながら感じている安堵の気持ちと、平安朝の才媛が布団のぬくもりの中で覚えた感慨は、やはりいくらか似通ったものだと思う。
風は荒ぶり、自然は激動している。しかし、それにもかかわらず、僕/私は確かにその世界の中に在って、世界に守られているように思える。抗いがたい大きな存在の掌中で小さくうずくまっていることの、危うさと頼もしさ。さらりと書かれた短い文章にそうした感情を透かし見ようとするのは、僕の深読みに過ぎないであろうか?
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ご存知の通り、平安時代を支配していたのは、堅苦しい漢詩文の世界か、おぼれるように情緒的な和歌世界という二者択一的な両極端の美学であった。
そんな中、清少納言のことばは何と自然で、虚飾がなくて、生活に基づいていて、しかもおっとりと上品なのだろう。誰もが知っていて、でもなかなか言葉にはできないようなことを、この人はいとも簡単に文章化してしまう。
彼女は歌人の一族に生まれながら、わずかな歌しか残すことがなかった。また、宿敵である紫式部のように華やかな長編作家としての資質も持たなかった。その代わり、誰にも真似できないエッセイストとしての才能を、天に授けられたのである。
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ここからは私論になるから、鵜呑みにしないでいただきたい。実は僕は、先に引用した短い断章の中には、もう一つ隠れたメッセージが込められていると思っているのだ。それも幾分、大っぴらには書きにくい彼女の真情が。
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既に述べたとおり、王朝貴族は概ねぐうたらな生活をしていて、朝寝や昼寝をすること自体、さほど珍しくなかった。しかし、若い女が大っぴらに昼寝をすることは習慣としてはしたないこととされていたし、昼寝をしたくなるのには当然前夜の寝不足という理由がついてまわるものである。
では、寝不足の理由とは何か。仕事? 音楽会? 坊主の説教? いや、もちろんそれらであってもおかしくないのだけれど、ここはひとつ、平安時代らしくもっと雅やかに考えてみようではないか。とすれば、自ずと答えは出て来る。すなわち、――恋人との逢引。
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これはあながち無鉄砲なばかりの推論ではない。あいにく都合のいい例を思い出すことができないのだけれど、事実、王朝和歌の中には、悩ましく眠れない夜を過ごしたために、昼間についうたたねをしてしまう、というような歌があったはずだ。物語の中にも、そんな場面があったかも知れない。
それでは、少し涼しい台風の昼、布団にくるまった清少納言。彼女が過ごした前夜はいかなるものであったろうか?
これも、さほど難しい推理を必要としない。
なぜなら彼女ははっきりと「昼寝したるこそ、をかしけれ」と、ご丁寧に係り結びまで駆使して宣言しているのである。このいくらか盛りを過ぎた、しかし男から絶大な人気を集めるキャリアウーマンがここまで満足し切っているのであるから、その夜はきっと大変愉快なものであったに決まっている。だからこそ、彼女は昼寝をしたくなるぐらいに眠く、しかも「をかし」なのだ。
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この「をかし」を現代語に置き換えるのは難しい。あえてそれを言えば、ゆったりとして、おおらかで、少しけだるくて、そしてほんの少し切ない気分を混ぜたような、ひどく茫洋とした女の幸福感、ということになろうか。僕には「最高だ」と書いて筆を投げてしまうことしかできなかった。結局のところ、「をかし」は「をかし」という言葉でしか言い表せないのだ。それが、ことばというものだ。
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短い夏の夜の逢瀬を思い浮かべ、惜しみつつ耳を澄ます、荒々しい風の音。それはほとんど官能的な響きさえ帯びたであろう。そういえば、清少納言がかぶっている「綿衣」(綿の入った着物で、寝るときは掛け布団代わりにも使う)にはすこし「汗の香」がしみついていたと書いてある。これはひょっとすると、その持ち主のものばかりではないのではないか。たとえば昨夜、彼女の局(つぼね)を訪れた若い恋人のそれとか…
そんな背景を想像しながら読み返すと、この妙にぶっきらぼうに書かれた短文の、そしてこれを書いた女の魅力が、ぐっと生々しく、鮮烈に、目の前に迫って来るような思いがしないだろうか。
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「枕草子」のこの章段についてこうした推論が既に発表されているのかどうか、学者じゃないから僕は知らない。もしかしたらとうに誰かが言っていることなのかも知れないし、あるいはあまりにバカバカしくて誰も言い出さないのかも知れない。
でも、もし清少納言がこうした含みを込めて確信犯的にこの小文を書いたのだとしたら、本当に凄いことだ。常に二重・三重の意味をほのめかしながら味わいを深めるという技巧は、王朝和歌にとって最も基本的な、そして最も重要なテクニックであった。歌人の父を持った清少納言だからこそ、こうした芸を自然に散文へ応用することができたのかも知れない。それにしても全く、現代に跋扈する凡百の文章家などとうてい及びもつかない、粋な技ではないか。
まあ、ちょっとした小話と思ってこの楽しみを共有してくれる人が少しでもいたら幸いである。