電車の中で、職場で、家庭で、第三者同士の会話を聞く機会というのは多い。僕には他人の話を盗み聞くような趣味はまったくないのだけれど、特に注意しなくとも勝手に耳に飛び込んでくるのが声というものの厄介なところだ。
で、ぼんやりと人々の話を聞いていてよく思うのは、
「あれ? なんだか話がかみ合っていないんじゃないか?」
ということだ。
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この現象には大まかに2種類があって、一つは議題自体が明らかに互いに一致していないケース。Aは飯島直子について話しているのにBはそれを飯島愛のことだと誤解している、など。こうした場合は、もちろん聞いていて歯がゆくはあるのだが、間違いがはっきりしているからいずれ判明するに決まっている。
厄介なのはもう一つのケースだ。Aが話そうとしていることと、Bが聞きたい話が食い違っているという場合。
たとえばAが病気で入院している父親について話していて、その関係でたとえば最近手術を受けた王監督のことを引き合いに出したとする。すると野球ファンのBはその尻馬に付いて王監督の話を始める。でもAが話したいのは自分の父親の話なのであって、王監督の話なんか聞きたくない。Aは上の空でBの熱弁を聞きながら、さりげなく会話を病気の話に戻そうとするがうまく行かない。
こういう互いの意図がかみ合わない会話を聞くのは、まったくかかわりのない他人のこととはいえなんだか息苦しく、気まずい。できることなら「君、君。野球の話がすきなのは分かるが今は彼の父親の話をしてあげたらどうか」と声をかけてあげたいところだがもちろんそんなことはできない。念のために断っておくとこれは親切のためにそうしてあげたいのではなく、微妙に狂った会話を聞き続けるのが僕自身にとって苦痛なだけである。
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もう一つ断っておく。こんな風に感じることが多いのは僕の感受性が強いからとか論理的思考に長けているからではない。大して興味のない他人事だからこそよく見えるというだけの話である。ことわざの類というのは時と場合によって当てにならぬことも多いものなのだが、「岡目八目」という言葉だけは人生のあらゆる場面に適用できるものらしい。
実際のところは、僕自身だって知らぬ間に、誰も求めないくだらないことを話し続け、誰かをうんざりさせているのかも知れないと思う。それを言うならそもそもここにこうして書いている文章も、これを読んでいるあなたを不快にしていないとも限らないのだ。
でも、それを避けることは僕にはできないし、誰にもできない。
村上春樹風に言うと、玄関マットにでもならなければコミュニケーションの不全を解消することなどできはなしないのだ。
せめてもの救いなのは、どれだけ偉大な人だってそうした誤解を避けられないということぐらいか。