「自分探し、という言葉は胡散臭くて嫌いだ。自分などというものは、最初からここにいる。探すべきなのは、自分ではなく、対象である」


 文言は少し違うかもしれないが、作家の村上龍がそんなことをどこかで言っていた。就職活動に関するエッセイか何かだったと思う。


 僕はべつだん夢見がちな若者というわけではないのだけれど、ときどき、うっかり「自分探し」をやろうとしてしまうことがある。気をつけなければならない。


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 自分が好き、と公言するほどの度胸は僕にはないが、自分が嫌い、と断言するのもまた、恥ずかしい。


 好きか嫌いか、といわれたら、多分、平均的なラインと比べるとやや「嫌い」の部類に入ると思う。ただし、自己嫌悪という感情はなかなかこれ自体、曲者なのであって、なんとなれば「自分のことが嫌いな自分」のことを、心のどこかでカッコイイと思ってしまう危険性が、常に付きまとっているからである。


 僕はその屈折した「自分好き」も認識していて、「あ、今おれは、自己嫌悪に陥っている自分を美化しつつある」と思うと、それでまたかえって自分がイヤになってしまう。自分がイヤになってしまうのであるが、やはりここまで自分の内奥を見抜いて自己批判のできる自分にはやはり正当性があるのではないかという気がしてどこかカッコいいような以下略。キリがない。


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 僕なりの結論を言わせてもらうと、自分が好き、というのも、嫌い、というのも、恥ずかしい。


 いずれにせよ、自意識過剰ということなのだ。


 村上龍に倣って言えば、自分が好きか、嫌いかなどを考える暇があれば、自分が好きなものを見つけてそれに打ち込め、ってことになるんだろう。自分に対する評価は、その結果としてついてくるんだと思う。


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 とはいえ、思ったとおりのことを実践するのは思いのほか難しいことで、それ以上に、思いたいように思うことは難しい。というか、そんなこと、人間に可能なのだろうか。うーん。よく分からない。