- 僕はごくごく平凡なヘテロセクシャルの一人だが、同性愛者に対していかなる偏見も持たない。残念ながら同性愛者の知人を僕は持たないが、仮に親友の一人がゲイであることが分かったとしても、我々の関係に悪影響が生じることはないであろう。
ということを踏まえたうえで以下の文章を読んでもらいたいのだが、一般的に、男性というのは、同じ同性愛者であっても、ゲイに対してより、レズビアンに対する方が、より寛容になる傾向があるようだ。
それどころか、時に男はレズビアンに対してある種の憧れを抱く。「自分が踏み入ることのできない、侵すべからざる聖域」といった風に、神聖視する場合すらある。
女の子に訊いてみると、ホモセクシャルに対する感じ方は概ねこの正反対であるらしい。多くの女の子は、レズビアンに対してはジメジメとした嫌悪を、そしてゲイの男の子たちにはオシャレなイメージを抱いているようなのだ。
このあたりのメカニズムを究明するほどの知識も知力も、僕は持たない。ただ、人は手の届かない場所にあるものについて考えるとき、何かロマンチックな気分になりやすいものだ。そうした心理から、男女によるホモセクシャルに対する感じ方の違いが生じるんじゃないかと思う。
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19世紀から20世紀初頭にかけてフランスで活躍した耽美派作家/詩人、ピエール・ルイスの残した詩集『ビリチスの歌』は、レズビアンを題材とした詩集である。これがまさに、男性から見たレズビアンへの憧憬を結晶化したような、耽美的な作品なのだ。
ビリチスというのは、紀元前のギリシャで活躍した女流詩人である。ギリシャ人の父とフェニキア人の母との間に生まれ、故郷で羊飼いの男と結婚、一児を成すが、夫と子を捨てて旅に出る。旅先で出会ったムナジディカという可憐な少女と恋に落ち、共に暮らす。晩年は遊女として生きたという。
ルイスは彼女の残した詩を現代フランス語に翻訳して、この詩集を発表したわけである。
というのが建前なのだが、これが実を言うとすべて真っ赤な嘘だ。
というのも、そもそもビリチスという女流詩人自体、ルイスの創作した架空の女性であり、したがって詩集に収められている全ての詩はルイスの手による作品なのだ。ところがルイスというのは恐ろしく凝り性な上に博学な男で、あたかもこれがギリシャ古詩の翻訳であるかのような体裁を整えて出版したものだから、ギリシャの大学教授までがうっかりだまされてしまったという逸話が残っている。
では、架空のギリシャの女流詩人・ビリチスに託したルイスの詩とは、いかなるものであったか。
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昨夜(よべ)のなごり
乱れ 破れて、敷物は 皺寄り塗(まみ)れ、あの女(ひと)が残した臥床(ねどこ)、そのままに。
あの女(ひと)の躯かたちが 妾(わたし)のそばに 跡を描いてゐるやうに。
明日まで 浴み(ゆあみ)に行くまい。着物も着るまい。髪さへも梳(くしけず)るまい。
愛撫の跡が消えうせぬため。
今朝も 今宵も 食べずにゐよう。唇に 紅も点(さ)すまい、粉も打つまい。
あのくちづけが いつも残つてゐるやうに。
鎧戸は閉ざして置かう、入り口の扉も 妾は開けるまい。ここに残つた思ひ出が
風に吹かれて 飛び去らぬため。
(鈴木信太郎・訳 『ビリチスの歌』より)
――これは、ムナジディカとの初夜の翌日における、ビリチスの述懐を表す詩だ。とてもなまめかしい詩であると同時に、極めてレトリカルな詩でもある。恋人の記憶を失うまいとする女の情念が、身の周りの物に託して淡々と歌われ、最後の1連でちょっとトリッキーに着地する。
続いて、さらにストレートに房事を描いた、こんな詩。
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戯れ
あの女(ひと)の、妾(わたし)は玩具、手毬よりも 人形よりも 楽しい玩具。
長いこと、口もきかずに あの女は、妾の肉体(からだ)の隅々までを
子供のやうにいじって遊ぶ。
気の向くままにあの女は、妾の髪を解きほどき、それから再び結ひ上げる。
時には厚い布のやうに 顎の辺りで結んだり、時には項に巻き上げたり、
時には先まで編み下ろす。
妾の睫の色合いや、肱の襞にも、驚き顔で眺め入る。時々、妾を敷布の上に
手と膝をついてしゃがませ、
(あの女の考へ出した仕草だが)小さな頭をその下に入れ、母親の腹から乳をぢかに吸ふ
震へる仔山羊の真似をする。
官能的な場面を濃密に描いた一編。先程の詩と比べると、ぐっと女同士だからこそのあやしげな風情が立ちのぼっているのがおわかりになるだろう。
でも、不思議にドロドロしたいやらしい印象が残らない、明るい空気が漂っているのも確かだ。牧歌的な肉体讃歌がうたわれた古代ギリシャを舞台にしているからこそ、こうした味わいが出せるのだろう。
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もちろん、この詩集の全てが、こうした性愛ばかりについて書かれているわけではない。詩はビリチスの人生に沿って配列されており、序盤のビリチスはまだ初々しい乙女なのである。
最後に、少女・ビリチスの歌った孤独な愛の詩を。
樹
着物を脱いで 樹のぼりをした。裸の腿で、滑らかな 湿つた樹肌を 抱き締めた。
サンダルが 枝から枝へと渡つてゆく。
天辺で、木の葉がくれに暑さを避けて、木の股に妾(わたし)は馬乗り。
両足を 宙に ぶらぶらさせながら。
雨はあがつた。雫が落ちて 肌を流れる。両手は 苔の染みがつき、
足の指は 花踏みしだき 赤く染まつた。
横なぐりの風が吹くとき、この美しい樹が生き生きと 生きてゐるのを 妾は感じた。
妾は脚をなほ締めつけて、枝の毛深い襟筋に 唇(くち)をひらいて 押しあてた。
恋に憧れながらも、その行き場のない気持ちをいかんともしがたい、少女の若い心。でも、少女は狭い部屋の中で内省に向かわない。瑞々しい古代ギリシャの自然のただ中で、その情熱をさわやかに発散する。この一編は、めくるめくような官能と清冽な美とを併せ持った、類まれなる名作だと思う。
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ところで、さきほど引用した「樹」という詩によく似た詩を、ある有名な日本の詩人も書いている。
ちょっと長いけれど、全部引用しよう。こんな詩だ。
恋を恋する人
わたしはくちびるにべにをぬつて、
あたらしい白樺の幹に接吻した、
よしんば私が美男であらうとも、
わたしの胸にはごむまりのやうな乳房がない、
わたしの皮膚からはきめのこまかい粉おしろいのにほひがしない、
わたしはしなびきった薄命男だ、
ああ、なんといふいぢらしい男だ、
けふのかぐはしい初夏の野原で、
きらきらする木立の中で、
手には空色の手ぶくろをすつぽりとはめてみた、
腰にはこるせつとのやうなものをはめてみた。
襟には襟おしろいのやうなものをぬりつけた、
かうしてひつそりとしなをつくりながら、
わたしは娘たちのするやうに、
こころもちくびをかしげて、
あたらしい白樺の幹に接吻した、
くちびるにばらいろのべにをぬつて、
まつしろの高い樹木にすがりついた。
(萩原朔太郎 『月に吠える』より)
ビリチスと同じく、幼く、行き場のない想いを抱いた少年(青年?)の詩。ビリチスと同じく、彼も独りで樹に抱きついている。
でも、さわやかな風の吹きぬけるビリチスの歌とは対照的に、そこに充満しているのは直視にたえないほどの病んだ魂である。女を得られず、女にもなれない孤独な男が、女の振りをして白樺を抱く情景。
朔太郎はもしかしたら、ルイスの詩を読んでいたのかも知れない。あるいはこの東西の並外れた詩人たちは、詩神の必然的な力に導かれて同一の美しいイメージにたどり着いたのかも知れない。
ただ、僕が男だからかも知れないが、この朔太郎の詩は僕には少々なまなまし過ぎて、素直に好きと言えないところがあるのだ。とても優れているとは思うのだけれど……
同じように、今日紹介した「ビリチスの歌」の詩篇も、もしかしたら女性読者にとっては生々しい嫌悪を喚起するかも知れない。もしよかったら、感想を聞かせてください。
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ちなみに、フランスの作曲家クロード・ドビュッシーは、ルイスの友人であった。
あるとき、ルイスが自作の朗読会を開くというので、その伴奏曲を作って欲しいとドビュッシーに依頼した。『ビリチスの歌』から数編を抜粋し、朗読するその合間に、神秘的な室内楽を流すという趣向である。
フランス語の朗読を含んだその曲のCDも販売されている。興味のある方は聞いてみてはいかがだろうか。僕もたまにフランス語の勉強も兼ねて聴いているが、ネイティブの発音は早口でなかなか聞き取れません。
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