今年の春は雨がよく降ったのに、桜がずいぶん長く咲いていた気がする。ここ数日で、ようやくすっかり散りつつあるみたいだ。


 今はまだ散り残った花と少しずつ吹き出てきた葉とが交じり合っているが、もう少し経てばすっかり緑色の葉桜になってしまうだろう。


 なってしまうだろう、などと書いているが別にそれを残念がっているわけでもない。寧ろ僕は葉桜が好きだ。


 そして、妙なことを言うと思われるかも知れないが、葉桜を見ると、美人を連想する。


     ☆


 中学生の頃読んだ小説に、泉鏡花の『義血侠血』という短編がある。いかにも鏡花らしい、派手で荒唐無稽な物語だったとぼんやり記憶しているが、話の筋はほとんど忘れている。読みづらいということもあったが、子供ながらにどうも大味な話だなあと思ったのを覚えている。


 ところで、この小説には滝の白糸という若くて男勝りの粋な女性が登場するのだが、この女の描写が、すごく、いい。

 

 その年紀(としごろ)は二十三、四、姿は強ひて満開の花の色を洗ひて、清楚たる葉桜の緑浅し。色白く、鼻筋通り、眉に力味(りきみ)ありて、眼色(めざし)に幾分の凄みを帯び、見るだに涼しき美人なり。


 こんなのだ。清楚たる葉桜の緑浅し、というのがいい。5月の光と風を受けて揺れる桜のまだ柔らかく薄い緑色の葉のイメージ。満開の桜の花の、ぼうっとした美しさじゃなく、葉桜のきりりとして涼しげな風情。女を花に喩えるのは陳腐だが、花の落ちた後の葉っぱに喩えるのは粋だと思う。


 白糸は23、4歳と書かれている。早婚の明治時代のことだから、今だと20代後半から30代前半にかけてぐらいの感じだろうか。今でも僕は、それぐらいの年で涼しげな感じの女性を見ると、「葉桜のようだ」と、ほれぼれ思うことがある。


 とはいえ、「あなたは葉桜のようなひとですね」などと言って女の人を褒めたことは、まだない。まあ、そこまで言ってあげたくなる場合にそれほど多く遭遇しないという事情も無論あるが、それ以前に、どうも一般に葉桜というものの評判が芳しくないようだからだ。


 鏡花のこの小説を始めて読んだ中学生の頃から、何度かさりげなく「葉桜=美人」のイメージについていろんな人に聞いてみたのだが、かえってきた反応は概ねこんなものだった。


「なんで葉桜が美人の形容になるのか、よくわからん」


「むしろ葉桜の爽やかさは10代の女の子向きじゃないか」


「大体、花が散った後の葉っぱなんて言われたら女の人は怒るだろう」


 褒めたつもりで怒られるのはつまらない。そういうわけで、言いたくても言えないでいる。


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 『義血侠血』の筋はあらかた忘れていて、今、ぱらぱらと手元の本をめくっても、案の定ほとんど覚えてはいなかった。また暇になったら読み返してみたいと思う。ただ、どうも葉桜のようなこの女性、年下の学生と恋したり、人を殺したりしているみたいだ。今読んだら昔よりは面白く思えるかも知れない。


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 葉っぱに喩えられた女性といえば、『源氏』に「落葉の宮」というお姫様が出てくる。夫の柏木が浮気に熱中して死んで未亡人になり、今度は柏木の親友だった夕霧に言い寄られてイヤイヤ一緒になってしまうというなんとも可哀想な役回りの人なのだが、それにしても落葉の宮というのはひどいあだ名だ。葉桜の場合と違って「落葉のような人ですね」なんていったら問答無用で怒られるだろう。


 あと『源氏』の中で圧倒的にひどいあだ名といったら、「髭黒」だろう。他のみんなは概ねそれぞれの詠んだ和歌にちなんでニック・ネームがつけられているのに、この男は高貴な政治家のくせに「髭が濃いからヒゲクロ」である。赤いシャツばかり着てるから「赤シャツ」ぐらい安直なネーミングじゃないか。


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 あだ名といえば、「何となくキャッチャーっぽいから」という理由で「キャッチャー」と呼ばれていた男を知っている。そういわれると、もはやそいつがキャッチャーにしか見えなくなるから恐ろしい。


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 久しぶりに文章を書いたらオチのつけかたがわからなくなっている。無茶苦茶である。まあ、いいか。僕らの思考にも人生にも、きちんとオチがつくことなんか滅多にないんだから。とか言いわけをしてダラリと終わる。