先週、京都のとあるバス停で、ひとりでバスを待っていたときのことだ。


 僕の前には一組のカップルがいた。大学生らしい。何を話していたのか忘れてしまったが、女の子の方はちょっととぼけた感じで、いわゆる一般常識もあまり知らなかったりして、知性派らしい男は


「おまえって、ほんとばかだなー(標準語でした)」


 などとにこりともせず言いながら、その誤りを訂正していた。そのたびに女の子は


「えー、そんなん、知らんわー(たぶん、京都の人だろう」


 と屈託なく笑っている。「おまえがばかなだけだよ」と突っ込む男。そんな会話が繰り返されていく。


 具体的に彼女が何を知らなかったのか、今となってはほとんど思い出せないのだが、確かに後ろで聞いていて、「そりゃないだろう」と僕があきれる程度には無知だったような気がする。


 最初は容赦のない彼氏の言動が彼女を傷つけるんじゃないかと思って少しひやひやしていたのだが、次第に、それが彼らの恋愛流儀であることが分かってきた。女の子は彼氏に馬鹿にされるたびに明らかに喜んでいたわけで、「ばかだなー」という罵詈すら、その男の口から出れば愛のことばだったのかもしれない。


 さらに言えば、もしや彼女は知っていることすら知らない振りをして彼氏の突込みを待っていたのではないか? あまりに無知な彼女の言動に耳を傾けていると、そんな疑いさえ兆してきた。そうだとすれば、なんという恐るべき恋の技巧であろう。ここに展開されている一見ナチュラルでばかばかしい会話が、実はよくできたプロレスの試合のように周到な打ち合わせ(しかもそれは恋人たちにあっては無意識に行われる)に基づいて展開されているわけだ。


 感心しながら彼らの会話を聞いていると、男がこんなことを言い出した。


「じゃあさ、九州の県、全部言える?」


「えー、絶対無理やわー」


「いいから言ってみろよ」


「えー。福岡やろー。熊本やろー。鹿児島やろー。うーん」


「もう終わりかよ! 馬鹿だなー。沖縄も含めれば全部で8県あるんだぜ」


「そんなにあんのー! っていうか九州やのに9個ないんやー!」


 大いに感心している女の子。


「おまえ、ほんとにばかだなー!」


 僕は実を言うと地理に疎い。必死になって女の子と一緒に地図を思い浮かべ、8県を探していく。あとは大分と、佐賀と……


「もう降参やわー。こんなんわかるわけないしー」


 彼女は早々に降参した。彼氏はしたり顔で、


「しょうがねえな。じゃあ答え言うよ。福岡、大分、熊本、鹿児島、ええと宮崎……」


「ああ宮崎! そんなんあったなあ! うちのいとこがそこに住んでんねんで」


「じゃあ思い出せよ。これで5つだな……あとは、そうだ沖縄、それからハナワの佐賀。あと一つ。えーと。あれ?」


 ここで事態は急変する。男は最後の一県を思い出すことができない。焦る男。そしてそれ以上に心細そうな女。彼氏がここでしっかりしてくれないと、彼女の演じてきた(かもしれない)役割も活きて来ない。


 台詞を忘れてしまった漫才師を見るような思いで、僕は彼らの後ろに立っている。何やってるんだよ、男! そうこうしているうちに、バスがやって来た。彼らは「うーん、うーん」としきりに悩みながら、それに乗り込んでいく。それは僕の待っているバスではなかった。


 ……長崎。


 よほど、そう小声でそうつぶやいてやろうかと思った。でももちろん僕は黙っていた。単純に決まりがわるい、というのがその主な理由だったが、それと同時に、こうも思ったからだ。


 二人で一緒に九州の最後の一県を思い出そうとする、バスの中の時間。それはそれで、幸福なものに違いないように思えたからだ。何年も経った後、結婚した二人が、あるいは既に別れてしまった彼らふたりがふと学生時代の恋を思い出そうとするとき、浮かび上がってくるのはこのバス停でしたたわいもない九州に関する話であるかも知れないからだ。


 バスは行った。さよなら、無邪気な恋人たち。僕は、時計を見た。友人に電話をかけて、少し遅れるかもしれないと告げた。


     ☆


 嘘っぽいですが、これはノンフィクションです。