「どうだ、凄いだろう」


 先生は誇らしげに言うんだが、どこが凄いのか一向に分からない。


「はあ。何の絵ですか、これは」


 正直に聞いてみる。


「はっはっは。これだから君は凡人だと言うんだ。目に見えるものしか見ようとしない」


 先生はますます嬉しそうに笑っている。


 縁なしの眼鏡をかけた長身痩躯の先生はちょっと見るとスマートな大学教授か何かに見えないこともないのだが、笑うと途端に品がなくなって、黒魔術師じみたあやしげな雰囲気が漂って来る。そちらが正体だと思う。


「はあ。しかし幾ら目を凝らして見ても、僕には何も見えはしないのですが」


 先生が傑作だと言って喜んでいる絵が目の前にある。幅1メートル弱の額縁の中にあるのは、ただ丹念に黒く塗りつぶされたキャンバスばかりである。


 内心、何も見えて来ない方がいいと実は思っている。どうせろくなことは起こらないに決まっているのだから。


 先生は確かに鬼才だ。先生の作品は迫真という言葉を超えている。真に迫っているのではなくて、「真」そのものに追いついてしまっているのだ。


 たとえば、先生の描いた薔薇の花束の前に立っていると、むせ返るような花弁の匂いが漂って来る。湖の絵の前に立っていると、遠いさざなみの響きがする。桜の絵の周囲には花びらが散り敷く。これ位なら風情があって結構なのだが、キツツキの絵の前にいると鼻をつつかれる。プロボクサーの絵の前に立つとぶん殴られる。あまつさえ吹雪の雪山を描いた風景画の前に立っているとあっと言う間に雪だるまになる。美術館の中で老夫婦が遭難しかけるという怪事件が一時期週刊誌を騒がしたことがあるが、あれは先生の仕業である。


 かく言う僕も、先生の絵のために何度も命を落としそうになったことがある。先日も先生の絵から抜け出した虎に食べられかけたばかりなのだ。正直に言って、先生の新作にはもう関わりたくない。


「しかしね、何も見えないという君の見解があながち間違っているわけではないのだよ。君。分かるかね。ええ?」


 面倒くさそうな表情を作っている僕には全く頓着せず、先生はもったいぶって言った。先生は講釈を垂れるのが何よりも好きなのだ。困ったものである。


「よくわかりませんね」


「これはね、虚無だよ」レンズ越しに、先生の目がぎょろりと輝いた。「何もないのさ、君」


「はあ。虚無ですか」


「凡百の芸術家は無から有を作ったと言って喜んでいるが、私はあえて無から無を抽出したのだよ。ここには何ものも存在せず、同時に『無』が存在している。このように画期的な発明をしたのは私が初めてに違いない」


「よく分かりませんが凄いですな」


 僕はとりあえず褒めておいた。もちろん正直に言うと、先生の言うことはよく分からないどころか皆目理解できていないのであるが。


「君はまだこの絵の偉大さを分かっておらんな」


 先生はちょっと不機嫌そうな声でこう言うなり、いきなり額に入った絵を手に取ると、僕の脳天めがけて振り下ろした。


「わっ。何をするんですか」


 反射的に身構えたが、絵は頭に当たらなかった。いや当たらなかったのではなく、僕の頭が何の衝撃もなく絵の中にすっぽりと入ってしまったのだ。気が付くと首から上だけが真っ暗な果てしない闇の中にいる。


「どうだ。分かったか」


 先生が絵を僕の頭から外して言った。


「どういうことですか、これは」


「こういうことさ」


 先生は手品でもするみたいに、黒い絵の中に手を突っ込んで見せた。先生の腕は肘の辺りまですっぽりと呑みこまれた。窓から手を伸ばしている人のように見えるが、これは窓ではなく、奥行きのないキャンバスなのだ。でももちろん絵は破れたりしない。それから先生は手近に落ちていたボールペンを絵の中に投げ入れた。それは音もなく黒い虚空に吸い込まれていった。


「なるほど。これは大したものですね」


 感心して言った。それに少なくともこの作品なら、虎や吹雪の絵と違って生命を脅かすことはなさそうだ。


「やっとこの作品の恐ろしさが分かってきたようだな」


 先生はニヤリと笑った。


「しかしこの絵が持っているのは芸術的な価値ばかりではないぞ。現代の地球環境問題を解決するヒントがここに宿っているのだ」


「ははあ」


「核廃棄物や不燃物なんかが今に地球を埋め尽くすことになる。ところがこの絵があればどうだ。全部ここに投げ込んでしまえば即解決だ」


「なるほど」


「私は特許で大金持ちさ!」


「はあ」


 先生はこう見えてお金に目がないのである。


「それだけではないぞ。一般家庭にもこれを売る」


「ゴミでも捨てるんですか」


「もちろんそれもある。しかし、これを使えば手軽に運動不足も解消できるのだ」


「運動? どうやって」


「こうすれば家にいながらにして懸垂ができる」


 先生はこう言うなり畳に置いた絵に飛び込み、縁を手でつかんだ。真っ黒い絵の縁に、先生の手だけがにゅっと出ている。不気味だ。


「危ないですよ。先生。こんな命がけの懸垂する人は一般家庭にはいやしません」


 先生は「いち!」と元気よく叫びながら絵の上に顔を出した。


「何、これぐらいのスリルがあった方が楽しいではないか。それに、怖ければ命綱を付ければいいのだよ。私はこの絵のおかげで懸垂が二十回できるようになった」


「分かりましたから早く上がって来て下さい。二十回しかできないようじゃいつ落ちてもおかしくないですよ」


 先生はこの言葉にむっとして、


「失敬だな君は。そんなことだからいつまでたっても画家として独立できないんだ!」


 今度は僕がむっとしたその瞬間、地震が来た。座っているのも難しいぐらいの激しい縦揺れである。


「あっ」


という短い声とともに先生は暗闇に落ちて行った。


「先生!」


 地震が収まってから絵に向かって何度か呼びかけてみたが、返事はなかった。念のため絵の中に首を突っ込んでもみたが、果てしなく広がる闇があるばかりで何も見えやしない。


 あきらめて僕は帰宅した。何日か経っても先生が戻って来ないようなら捜索願を出そう。


    ☆


 翌日、先生から電話がかかってきた。生きていたのだ。さっそく会いに行った。


「昨日は大変でしたね、先生」


「うん。凄い地震だった」


 先生は落ち着いて微笑している。


「いえ、地震のことじゃなくて、絵に落ちた件です」


「絵に? ああ、そんなこともあったね」


 先生は可笑しそうに含み笑いをしている。何か隠しているらしいが、どうもいつもの先生と様子が違う。心なしか少し物腰が柔らかくなっているようだし、顔なども全体に少しずつ美化されているように見える。悪い感じではないのだが、どこかに違和感がある。


「なんだかいつもと雰囲気が違いますね」


 思い切って聞いてみた。


「ほう。君はなかなか見所があるね。分かるのかい」


 先生はにっこり笑って言う。いつもの毒気がない。その笑みに甘えてつい無遠慮な言葉が口をつく。


「はあ。いつもより紳士的に見えます」


「ははは。そうかもしれない。少なくともいつもより悪くなっていることはないんだろうな」


「一体どういうことですか、先生」


「私は自画像さ」少し美しく善人になった先生は説明した。「こんなこともあろうかと思って、あらかじめ描いておいたものらしい。本体が戻って来ないみたいだから代わりに出て来たんだ。君もあの男には苦労させられたのだろうな」


 それから、爽やかに微笑みながら付け加えた。


「そうだ、あの物騒な黒い絵は焼き滅ぼしてしまおう。その方が世の中のためだからね」



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最近ちょっと忙しくて更新が滞ってしまい、すみません。

花粉症をのぞけばいたって元気にしております。


新しい記事が書けない代わりに、昔書いた変なショート・ショートを載せて

お茶を濁してます。


しかしこれ、何のメッセージ性もない文章ですね。


TrickyDays