あまり知られていないことだが、夏目漱石は俳人としても一流の人であり、作家としてデビューする前はアマチュア俳人として名を成していた。明治を代表する俳人・歌人である正岡子規も、漱石の句に対して高い評価を与えている。


 現代人の目から見れば、寧ろ子規よりも漱石の句の方が斬新で面白いとさえ言えるかも知れない。少なくとも僕は子規よりも漱石の句の方が好きだ。


 漱石の句は、いかにも彼らしい倫理的な清潔感と、読むものをあっと唸らせる奇想に満ちている。たとえばこんな句。


 思ふ事ただ一筋に乙鳥(つばめ)かな (明治28年)


 春の青く晴れ渡った空を、まっすぐな軌跡を描いて飛び去って行くツバメの姿。あのツバメのように、自分も真っ直ぐ前を向いて歩いて行きたい。――そんな思いを込めて書いたのだろうか? もちろん、ツバメの直線的な飛行を戯れに人間の心に喩えてみただけの句なのかも知れない。いずれにせよ、きりりとした語法は見事としかいいようがないし、読後に残る爽やかな後味も格別な一句だ。


 ちなみに僕は、お世話になった先輩が会社を辞めて行くとき、寄せ書きにこの句を書いた。


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 次は、厭世家・漱石らしい苦渋に満ちた一句。


 寄り添へば冷たき瀬戸の火鉢かな (明治32年)


 寒い冬の夜、ふと暖を求めて手をかざした火鉢。でも、意に反してそこにぬくもりはなかった。失意のうちに、白い灰ばかりの残る冷たい火鉢を眺めるひとりの中年の男。


 見ようによれば、うっかり火を継ぎ足すのを忘れていた間抜けな姿、という風にも解釈できる。けれど、僕がこの句から感じるのは、愛するひとからぬくもりを与えてもらえない寂しさ、そして孤独感だ。偏屈な学者である漱石とヒステリックな傾向にあった夫人との関係がうまく行っていなかったことはよく知られている。冷たい火鉢が妻のメタファーであると見るのは僕の深読みだろうか?


 言い知れぬ憂愁を秘めていながらも、口ずさんだときの響きには和菓子を思わせる美しさが漂う。


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 そうかと思えば、にっこり微笑みたくなるようなロマンチックな句もある。


 君が名や硯に書いては洗ひ消す (明治29年)


 あー、恋する男というのは百年も昔から同じように愚かなことをやっていたんですね。僕もノートに意中の人の名を書いては消しゴムで消すということをやったことがあります。人にノートを貸すとき、跡が残っていやしないか心配で仕方ありませんでした。


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 最後に、これぞ俳句! という情景描写の一句。


 蝶去つてまたうずくまる子猫かな (明治44年)


 猫好きだった漱石らしい、技ありの一句である。どこからか漂ってきた蝶を夢中になって追い回していた子猫、蝶がどこかへ去ってしまうとまた眠そうな目をして、春の暖かな縁側にうずくまってしまう。これだけの短いことばの中で、一連の映像がくっきりと頭に浮かんでくる。そして眠りに就く猫の背後にあるのは、春という季節のなんともいえないゆったりとしたおおらかさ。


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 他にも紹介したい句はたくさんあるのですが、今日はこの辺りで。