久しぶりに読み返した『伊勢物語』の主人公は、思ったよりずっと憂鬱な男だった。昔は才気溢れる色好みとしか見えなかった男の意外な繊細さが興味深く思えたので、ちょっと紹介してみようと思う。
今日は割と有名な第二段より、どこかアンニュイで翳りのある恋のワン・シーンを取り上げてみる。短いのでまずは全文を引用する。
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むかし、おとこ有けり。ならの京は離れ、この京は人の家まださだまらざりける時に、西の京に女ありけり。その女、世人(よひと)にはまされりけり。その人、かたちよりは心なんまさりたりける。ひとりのみもあらざりけらし、それをかのまめ男、うち物語らひて、帰り来て、いかゞ思ひけん、時は三月のついたち、雨そをふるに遣りける。
起きもせず寝もせで夜をあかしては春の物とてながめ暮らしつ
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次に僕の現代語訳。
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昔、男がいた。
都が奈良から平安京に移ったばかりで、新しい都では民家もまだ定着していないころ、平安京の西側に女が住んでいた。
その女は世の人と比べて美しかった。そうしてその美貌以上にずっと美しい心を持っていた。独身ではないらしかった。
それを、例の生真面目な男が、女と親密なことばを交わし合ったあと、帰宅して、どのように思ったのであろうか。――折しも弥生(三月)ついたち、雨のやわらかく降る日に、このような歌を女に贈った。
起きるでもなく
寝るでもなくて、
君と過ごした
かの春ひと夜。
今日また一日(ひとひ)
茫然として
雨を見るうち
日は暮れて。
それも春とて
げに仕方なし。
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多少意訳しているけれど、大体は原文どおりだと思う。間違ってたらごめんなさい。なんだか俗っぽい歌の訳は見逃していただけたら幸いです。
要するに、この主人公は不倫をしているんですね。悪い奴である。でも、本文には「まめ男」つまり誠実・生真面目な男と書かれている。真面目な男が夫のいる女に近づくのは、よほど真剣に恋しているから。でも男は、きっとこの恋を心から楽しんでいるわけではない。行く先の見えない恋にどこか息詰まるものを感じながら、それでも女のぬくもりにおぼれ、そこから抜け出せずにいる。
「うち物語らひて」とあるのは、ただプラトニックにおしゃべりしているわけじゃありません。古語で「語らう」と言えば、睦言を交わすことを暗示するのだから。
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そして翌日、女に送った歌。「起きもせず寝もせで夜をあかしては」までで、昨夜のことを語る。「起きていたのか眠っていたのかさえ定かでないまま夜を明かしてしまった」、と言っている。もちろん、一晩中うつらうつらしていたわけではない。それぐらいぼうっとするような、素晴らしい時間だったということだ。
「春の物とてながめ暮らしつ」は、代わって今日の話。直訳すれば、「春はそういうものだからと思いながら、物思いに耽りつつ雨を眺めながら一日を過ごしてしまった」ぐらいの感じか。「ながめ」は「長雨」と「物思いに耽りながら眺める」の両義を持つ言葉である。
女の家から帰ってきて、なお男は昨夜のことを思い出してはぼんやりしている。そのとりとめもない気持ちを歌にして、女に書き送ったわけだ。とてもなめらかで、美しい調べだと思う。そして上の句がさりげなく艶っぽい事情を暗示している様子もなかなかいい。
でも、何よりも素晴らしいのは、この歌が浮き上がらせてくる若い生真面目な間男の不器用な憂鬱だろう。男はたぶん、女からの返事を求めてこの歌を贈ったのではないような気がする。そうした定型的なあいさつにしては、余りにも孤独で直截的な自我を感じさせる歌だからだ。これは男の吐き出した沈鬱なモノローグであって、ただ彼はその苦しみを女に知ってもらいたかっただけなのだと思う。
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ちなみに『伊勢物語』の第一段では、元服(成人の儀式。12~17歳ごろに行う)したばかりの若い男が初めての恋のアプローチを試みるという初々しいエピソードが取り上げられている。
それに続く物語であることを考えると、第二段で登場するこの男、まだかなり若かったのではないか。たとえば現代であれば、「少年」と呼ばれるほうがふさわしいぐらいに。そして、既に別の男を通わせていたというこの美しい女性、彼女は主人公よりも年上だったのではないだろうか?
なんとなく、僕にはそのように思えてならない。男が一方的に語る恍惚も、戸惑いも、苦しみも、そう考えたらすっきり納得できる気がする。この歌が持つ耽美的で孤独な響きも分かる気がする。
皆さんは果たして、どのように感じられるだろうか?