幼い頃の自分がどういう人間だったかなんて、今となってはあまりはっきりとは覚えていないけれど、どうもぼんやりとして、夢見がちな子供であったのは確かだと思う。もっともその傾向は今でも概ね変わっていなくて、それにふと思い当たったとき、三つ子の魂百まで、なんて言葉をふとしみじみかみしめてみたくもなる。


    ☆


 何故こんなことを急に言い出したかというと、先日街を歩いていて、そういうタイプの子供に出会ったからだ。もう少し正確に言うなら、僕らは幅の広いある横断歩道の上ですれ違ったのである。


 彼らは3人の親子連れだった。まだ若くて、でもちょっぴり疲れた感じのお母さんと、利発でやんちゃそうな6歳ぐらいの女の子と、たぶんその弟らしい、4歳ぐらいの男の子。


 道路を隔てた向こう側で信号待ちをしている彼らのようすを見るともなく見ていると、母親と娘は何かおしゃべりしている様子だった。行き来する車の音で声までは聞こえないけれど、女の子が何か他愛もないことを誇らしげに紹介し、母親はそれに笑いながら耳を傾けている、そんな雰囲気だった。


 母親はもしかしたら、ちょっと別のことを考えていたのかも知れない。今夜の夕食の支度のこととか、なかなか上がらない夫の給料のこととか、ともだちの結婚式に着て行く洋服のこととか。でもまた、何かを話したくて仕方がないだけの女の子にとって、それは大した問題ではないのかも知れない。要するにそれはありふれた家庭の風景だったのだ。


 男の子はよく笑う姉と比べるとちょっとぼんやりとした感じの子だった。


 じっと行き交う車のタイヤあたりを見つめて、母親と姉の会話には全く耳を傾けようともしない。でも、別に機嫌を損ねているというわけではないらしい。伏目がちの彼の表情はそれほど明るいものではなかったけれど、何かに「とらわれている」者特有の虚ろな熱を感じさせた。視点が動かないところを見ると、どうやら自動車に夢中になっているというわけではなさそうだ。けれど、他のいったい何が彼の目をそれほどひきつけるのか、僕にはさっぱりわからない。


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 信号が青になった。僕らは向かい合って歩き出した。並んで談笑する母と娘、二人から少し遅れ、相変わらず、何かに夢中な様子でうつむいたまま歩いていく男の子。歩いていく? ――いや、彼の歩き方は、歩いているというには少々奇妙なものだった。飛び跳ねている、といったほうが正確に思える歩き方だった。


 僕らは徐々に近づいた。少年は一生懸命下を見つめているので、前を歩いてくる僕に全然気づいていない。彼は一体何を見ているのか? 母と娘はもうすれ違った。


 そのとき、ようやく謎が氷解する。彼は白く塗られた横断歩道の模様の上を踏んで歩いているのだ。まるでそこから足を踏み外したらそのまま奈落へと転落してしまうといった風に、極めて厳格な表情で。彼自身の幼い心が創ったルールに従って、今彼は形而上のつり橋の上を歩いているのだ。彼の細く短い足にとって、一度たりとも足を踏み外すことなく横断歩道を歩ききるのは、一種の冒険であるに違いなかった。


 小さい冒険者はもう僕の目の前に迫っていた。僕は彼の情熱に敬意を表し、道を譲った。僕は振り返らずに横断歩道を渡った。彼もきっと、無事向こう岸に辿り着いたことだろう。


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 子供の頃、僕もよく自分で作ったルールで遊んだものだった。彼と同じ遊びはもちろんのこと、影だけを踏んで歩こうとしたり、次の電柱までは息を我慢しようとしたり……。先日すれ違ったあの男の子と同じく、僕も傍から見たらずいぶんぼんやりとした子に映ったろうと思う。


 今でも僕はときどき同じようなことをする。市松模様の通路の上で、黒い部分だけを踏みながら歩いてみるとか、たとえばそういったことだ。けれどもちろん、昔ほど真剣にはやらない。不自然な歩き方になるのは大人としてやはりまずいし、第一人にぶつかりそうになって危ないからだ。


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 「君たちがうらやましいよ」


 僕は歩き続けながら、あの男の子に心の中でよびかけてみる。あるいはあの頃の僕自身に語りかけてみる。


「自分自身で作ったルールだけを心から楽しめる君たちが。誰しも大人になったら、いつまでもうつむいたまま歩き続けるわけには行かないのだから。自分で作ったルールより、もっともっと複雑なルールが、世の中にはいやになるほどたくさんあるんだ。中には到底誰にも理解できないような理不尽なルールだってある。もっとも、それが必ずしもつまらないってわけじゃないんだよ。難しいルールでも、きちんと理解できれば楽しいものなんだから。――君も、誰かの大切な人の心を知りたいって思うときが来たら、それがきっとわかるよ」