綿矢 りさ
蹴りたい背中

 突然だが、ラブコメが好きだ。


 くっつきそうでくっつかない、じれったい男の子と女の子の話のことである。


 だから、あだち充の漫画なんか大好きだ。夏目漱石の「三四郎」あたりのじれったさもたまらない。


 「源氏物語」の濃厚なラブストーリーもいいんだけれど、「更級日記」ぐらいの淡ーい恋も好き。


 そんなラブコメ好きな僕がここ数年で読んだ中で一番面白いと思ったのが、ご存知最年少芥川賞作家・綿谷りさの「蹴りたい背中」なのだ。


    ☆


 まあミリオンセラーを打ち出したくらいの本だから、すでに読んでいる方も多いとは思うけれど、簡単にストーリーを紹介する。


 主人公は長谷川初美という女の子で、高校1年生。高校という新しい環境になかなか順応できなくて、入学してから2ヶ月経つというのに、未だに新しい友達が一人もできない。中学時代の頃からの友達が一人同じクラスにいるのだけれど、その女の子には新しい友達ができてしまって、日に日に疎遠になっていく。


 孤独な初美にとっては、休憩時間が何よりも苦痛だ。


 そんなある日、理科のグループ実験のとき、ひょんなきっかけでクラスメートの「にな川」という男の子と知り合いになる。にな川も初美と同じくクラスでは浮いている存在で、友達らしい友達はいない。


 このにな川の趣味というのが変わっていて、最近人気の出てきたモデル出身のアイドル、「オリ」という女の子に夢中なのだ。夢中というより、ほとんど完全な「オタク」の領域に足を突っ込んでいる。本文を読めば、にな川君のちょっとアブナイ感じはよくお分かり頂けると思う。


 ただ、にな川が初美と違っているところは、自分がクラスで孤立していることについて、全然意に介していないところだ。


 初美はなじむことのできないクラスメートたちに毒づいたり、見下すような発言を繰り返すのだけれど、にな川の方はハナからそんなことはどうでもいいという態度。アイドルのおっかけをやっていることを除けば、読者から見ると、結構クールな奴にも映る。


 少なくとも露骨にトゲを出さずに生きられない初美と比べると、一段オトナっぽい感じがするのだ。


 で、クラスのはずれ物同士の二人は、おのずとだんだん仲良くなっていく。初美はにな川の家に遊びに行ったりする。「付き合ってるの?」なんて周囲に勘違いをされるようにもなる。けれど、二人の関係は恋愛とはほど遠い。にな川はアイドルに夢中でアブナイ状態だし、初美はそのアブナイにな川を嫌悪していて、その情けない姿を見ていると、いじめたくなってしまう。


 ある日、ひょんなことで、とうとう初美はにな川の部屋で、にな川の背中を思い切り蹴ってしまう。で、自分のその行為にすごくドキドキしてしまう。


 その後も二人の関係は進展がなくて、なんだか良く分からないタイミングでキスっぽいことをしたりもするんだけれど、やっぱりにな川は初美のことはどうも眼中にないみたいだし、初美も自分がしたことがよく分からない。初美はにな川のことを相変わらず哀れむようないらだつような気持ちで見ていて、とてもその気持ちが恋とは思えない。


    ☆


 最後の方でちょっとしたイベントが起こるのだが、まだ読んでいない人のために、そこは伏せておく。しかし、結局二人の関係に決着はつかないまま、小説は幕を閉じてしまう。


 で、この小説のどこがいいのか。どこが面白いのか。


 複雑なところがいいのだ、と僕は思う。


 「恋」「友情」「嫉妬」「尊敬」「憐憫」「憎悪」「嫌悪」「羞恥」「情欲」……


 などなど、言葉として並べたらいくら書いても足りないような雑多な感情が複雑に絡み合ってできた、「初美」という特異なキャラクター。ここまで複雑な心理を描いた小説というのは、それほど多くはない。


 でも、この小説のさらに凄いところは、「こんな複雑な心理を、全然複雑ではない文章で書いた」点にこそある。


 文章は女子高生風の軽いノリで書かれているし、主人公の視野の狭い一人称による感情表現は、一見するとひどく浅薄でナマイキな印象を受けるものだ。


 けれど、そんな軽い女子高生風文章で、上に挙げたような恐ろしく複雑な感情をさらりと描けてしまえている。これは、恐るべき文才の成せる業である。文才だけではない。主人公よりも遥かに成熟した客観的な視点を持っていなければ、こんなすごいことは絶対にできない。


    ☆


 最後に、「蹴りたい背中」の中で僕が一番好きな文章を引用して終わろう。


 コンサート会場で人ごみにモミクチャにされているにな川に、初美がふと


 「痛いの好き?」


 と聞いて、それに対してにな川が


 「大っ嫌いだよ。なんでそんなこと聞くの。」


 と答える場面があるのだが、ここで出てくる初美のぐっと来る独白。


 痛いの好きだったら、きっと私はもう蹴りたくなくなるだろう。だって蹴っている方も蹴られている方も歓んでいるなんて、なんだか不潔だ。


 ……「蹴っている方も蹴られている方も歓んでいるなんて、なんだか不潔だ」。


 読んでいて思わずニヤリとしてしまう名文句。発言は完全にサディストのそれなのだけれど、すごくシャイで、清潔感に満ちている。20歳を過ぎた僕らにはちょっと言えない台詞だ(16、7歳のときにも言う機会はない台詞だけれど)。


 「蹴りたい背中」の世界観はすごく狭く、ミニマムなところをひたすら行ったり来たりする話しなのだけれど、引用箇所に現れている独特の清涼感がさわやかな風を送り込んでくれている、それが救いになっているのではないか。僕にはそう思えてならない。


 ちなみに僕も痛いのは大嫌いだが、この主人公になら一度くらい蹴られてもいいかなと思いました。