2011年。
今年度は、今まで以上に激動の1年だった。
それは、もう一つの激動の1年であり、全ての始まりでもあった2009年に続く激動の日々だった。
その激動は、2009年のものとは大部分が真逆だった…
今年度、私はひそかに厄年だった。
小厄だったが、特に何もしないまま年の始めを過ごした。
これはそのための事だったのかなと後になって思った。
2月3日、おじいちゃんが大腸ガンのため84歳で逝去した。
その前日、私はおじいちゃんが私の手を握ってくれたのを覚えている…
強い握り方だったので、まだ気力はあるみたいだと前向きに受け止めた矢先の事だった…
そして2011年は、2009年に積み上げてきた事が失われた年でもあった。
私はいずれ市川を離れ、ポケモンセンターからは疎遠になる事は腹をくくる形で準備はできていた。
できるなら、そういう形でそうなってほしかったと私は後に痛感した。
それ以前にも、私はひそかな喪失を経験していた。
それは、2月の帰省の時だった…
2月末の帰省の時、私は迎えが来れないという理由で駅から自宅まで歩いて帰る事になった。
その時、外は珍しく雨で、ただでさえ大荷物を背負っていた私は傘をさす事も出来なかった。
ようやく着いた時、服はびしょ濡れだった。
生乾きするまで待てないような状態だったので、私は即刻着替えて洗濯に出した。
しかし、これが後に大きな迂闊になる事を私は知らなかった…
翌日、『ズボンに万歩計みたいなものがあった』と話していたのを私は小耳に挟んだ。
ふと部屋のテーブルを見てみると…そこには…
…ポケウォーカーが置かれていた。
ポケウォーカーは、洗濯機による水没により壊れてしまった…
今までポケウォーカーだけは注意していた私にとって最初で最後の隙を見せてしまった瞬間だった…
ポケウォーカーが関係なくなった新シリーズばかりをしていたがための事だろうか…
喪失はそれだけでは終わらなかった。
寧ろ、ポケウォーカーの喪失はその序章だったのかと私は今になって思っている…
東日本大震災からしばらくした後、私は久々に集まりに参加した。
久々に直に会った相手は、ちょうど全てが始まった時に偶然会い、それから交流を始めた人だった。
その人、そして他の参加者達と夜遅くまで楽しい時を過ごした。
私にとってその時の交流は、今まで以上に充実した時間だった。
人との交流は、こんなに楽しいものだったんだね…
私は当たり前のように大事な事を身をもって実感した。
次回はいつになるかわからないというわけだが、少なくとも私が合格した後というのは前提とされていたので、気長に待つ事にした。
いずれにせよ、次回の集まりも楽しみにしている。
そう思いながら、私は浜松町を後にした。
次なる集まりは、ヨコハマだった。
この時が私にとってひとまず見納めの集まりだった。
桜木町での集まりもトウキョーに負けない充実感があった。
私を暖かく出迎えてくれる参加者達は、友人がいないに等しかった私にとって最高の支えだった。
その集まりで私は今回がひとまず見納めという宣言をした。
次は少なくとも試験が終わったら、最高でも合格したらという約束を交わして桜木町を後にした。
宣言した以上は、責任を持たなければならない。
私は復帰の時をバネにラストスパートを頑張ろうとスタリバ時代終盤以来の誓いをたてたのだった。
わざわざ記事で私の事を取り上げてくれたのも俄然戦いへのやる気を奮い立たせる糧になった。
私の事をこんなにも思ってくれてる人がいる。
それだけで私は最高に嬉しかった。
それから約2ヶ月後、私はその心境と共に戦いに望んだ。
試験には受からなかったが、まだ終わりじゃないという事とその先に待っている集まりが支えになり、私は気持ちを切り換え、再戦を誓った。
私が試験を諦めなかったのは、これからの事とそれを待っている人がいたからだった。
受からず仕舞いという失ったものは数えず、これからの事という残されたものを前向きに数える事ができたのもまだチャンスがあるだけではなく、そういう支えもあったからだった。
当初は、久々の挫折でかなり響いたが、(数日ろくに食事もできなかったほど)私が立ち直れたのは、それがあったからだ。
今日になって、私は支えがある事のよさを初めて実感したのだった。
しかし、その6月から私の日々は壊れ始めた。
合格出来なかった事への挫折による一時的な暴走によって、私は今までやりも考えもしなかった事を仕出かしてしまった。
その時、私は初めて実感する事となった。
『ネットワーク界の関係の軽さ』、そして…『ネットワーク界の痛み』という事を…
私はそれにより、しばらく精神科に通う事になり、悪化すれば入院にもなりかねないほどにまで追い込まれた。
ネットワーク界がこれほど痛ましいものだったとはと身をもって痛感した瞬間だった。
暴走した事への懺悔録を投稿して、私はあらためてやり直そうと宣言して、この事態はひとまず収束した。
周囲も、私から離れずにその後も私との交流を再び続けてくれた。
これならもう暴走する事もなく、そして公務員試験のための支えとしてあらためて頑張れる、そう私は思っていた…
懺悔録を投稿して、謹慎していた時、私のもとに個人からの連絡が届いていた。
その相手は、私と交流した事のある人だった。
一体何の用かなと思い開けてみた。
その内容は、身に覚えのない事への苦情と私への絶縁に相当する内容だった。
…これって何の話…?
私こんな事した覚えないのに…?
その後もそのメールは続くように送り付けられた。
最終的には、ただの悪口としか言えない内容へと変貌していった。
あの暴走の件については、謝罪してもう許してもらったはずなのにどうしてこんな事を…
不意打ちのようなこの仕打ちは、私に再び大きな傷を与えた…
何がどうなっているのか私にはもうわからなかった。
理由も話さず、ただあんな事を言ってきたり、私が普通にしていても何かとああ言えばこう言うみたいな仕打ちをされる…
私がその後何をしたと言うんだ…
ただそればかりが過ぎっていた…
その広がりは、いつの間にか寛容な相手にも及んだ。
最終的に私はとうとう最後の信頼を得ていた相手からも見放され、完全に孤立してしまった…
私はもう慟哭する気力すら残されていなかった…
2008年の挫折も全ては、2009年から築き上げてきた事があったからこそ乗り越えられた。
不本意な受け止め方をしていた私に誇りを持たせてくれたのもその時、そしてその交流があったからだった…
今になって思えば、私にとってここでの交流、そしてそれによって築き上げたものは私の全てだった。
サークルやゼミに入るような大学生として当たり前の事をしないでそのために頑張って過ごしてきた…
2009年から始まった交流は、サークルに相当するほど私にとって最高に充実した日だった。
公務員試験に受からなかった後も、これからの交流が続く事を知った時からまだ頑張れると今まで想像した事もなかった前向き思考を持てるようになった。
来年度の試験に必ず合格するために、そのメリハリとしてまた集まりに参加しよう。
そしてその交流をバネにあらためて頑張ろう、そう私は初めて思った。
その矢先、私は生涯初めての経験を再び実感する事となった…
けど…どんな事実であろうと、東日本大震災と比べれば私などどうだっていい事なのだろう…
おじいちゃんを亡くした事から始まった壊れゆく日々…
おじいちゃんへの悲哀は、その時と比べて今はもうそれほど起きてはいない。
けど、そういう事なら、それだけで終わってほしかった…
6月から、梅雨空のように私の日々は、曇り空を超越して日の昇らない空になっていった…
それも次の月になる頃には、だいぶ収まりあらためて明るい日々に切り替えていこうと思った矢先…
身に覚えのない事で、信頼していた人から急に手を切られる発言をされ、私は再び心を病むような心情に戻された…
理由も話さないまま、ただ私を一方的に責める発言…
不意打ちのような、何より理由も話さず身勝手な形で私は言いたい放題言われた…
話し合いをしたくても、聞いてくれず、さらに責めはエスカレートした。
このまま水掛け論をしても埒が開かないと悟った私は、反論するのをやめる事にした。
それからというもの、その人とは寄りを戻す事はなかった…
つい最近まで、普通に交流していた相手が急に何の理由も言わずに縁を切った…しかも、それから私を責めるだけしかせず、まるで今までの交流が嘘だったかのような実状へと変わってしまった。
これほど痛ましい事が他にあるだろうか…
今回は進路を決める機会を失い、その後に2009年から積み重ねてきた支えや交流仲間を失い、風評による評判を失い、集まりの機会を失い、最後の信頼の相手さえも失い、私は一人になった…
私の中には、もうあの時の楽しさも充実感も残されていない。
数えられる残されたものは…何一つ残らなかった…
私がここで築き上げてきたものは、皮肉にも同じここで全て壊される事となった…
今年度の出会いや交流は、貧乏くじだったとでも言うのか…?
今までの事は、全部夢だったとでも言うの…?
最初から私と交流したのも全て嘘だったとでも言うの…?
東日本大震災と共に、2011年という日々を私はこれからも忘れる事はないだろう…
どんな楽しい日々も…
どんな深い交流があろうとも…
それは、一つの行いだけで簡単に壊れ、そこに過去の事を提示しても意味をなさない…
私は…その日々を何一つ取り戻す事はできなかった…
ここに書き記した事も…それによって築き上げたものも…
今となっては、ただの過去にも思えないような…そんな壊れゆく日々の中で崩壊の一途をたどっているだけ…
私は何一つ…築き上げた日々を取り戻す事はできなかった…
ここから始まり、それから様々な交流や出会いを築き、ついには直に会う事にまで発展して、ネットワークを超越した直の交流により、今までにない楽しい日々に巡り会った。
そのきっかけは、さらに広がり時に大勢、時に県を大きく離れ、遠征をする形での出会いにまで広がり、充実感はさらなる発展を遂げ、私は初めて生き甲斐というものを見つける事となった。
そんな楽しく充実した日々も今では過去の話…
過ぎ去った事だけでは終われない…最初からなかった事のよう…
2009年から始まった事の全ては、一つも取り戻す事なく…私から消えていった…
全てはこの時があったから…
築き上げたものがあったから…私は頑張れた…
きっかけから2年過ぎた時に築き上げたものは今までないほど大きいものだった…
築き上げたもの、過ごした日々…
その全てが私にとって最高の宝物だった…
それも…今となっては…
私が過ごした2年は…
何だったのかな…
今年度は、今まで以上に激動の1年だった。
それは、もう一つの激動の1年であり、全ての始まりでもあった2009年に続く激動の日々だった。
その激動は、2009年のものとは大部分が真逆だった…
今年度、私はひそかに厄年だった。
小厄だったが、特に何もしないまま年の始めを過ごした。
これはそのための事だったのかなと後になって思った。
2月3日、おじいちゃんが大腸ガンのため84歳で逝去した。
その前日、私はおじいちゃんが私の手を握ってくれたのを覚えている…
強い握り方だったので、まだ気力はあるみたいだと前向きに受け止めた矢先の事だった…
そして2011年は、2009年に積み上げてきた事が失われた年でもあった。
私はいずれ市川を離れ、ポケモンセンターからは疎遠になる事は腹をくくる形で準備はできていた。
できるなら、そういう形でそうなってほしかったと私は後に痛感した。
それ以前にも、私はひそかな喪失を経験していた。
それは、2月の帰省の時だった…
2月末の帰省の時、私は迎えが来れないという理由で駅から自宅まで歩いて帰る事になった。
その時、外は珍しく雨で、ただでさえ大荷物を背負っていた私は傘をさす事も出来なかった。
ようやく着いた時、服はびしょ濡れだった。
生乾きするまで待てないような状態だったので、私は即刻着替えて洗濯に出した。
しかし、これが後に大きな迂闊になる事を私は知らなかった…
翌日、『ズボンに万歩計みたいなものがあった』と話していたのを私は小耳に挟んだ。
ふと部屋のテーブルを見てみると…そこには…
…ポケウォーカーが置かれていた。
ポケウォーカーは、洗濯機による水没により壊れてしまった…
今までポケウォーカーだけは注意していた私にとって最初で最後の隙を見せてしまった瞬間だった…
ポケウォーカーが関係なくなった新シリーズばかりをしていたがための事だろうか…
喪失はそれだけでは終わらなかった。
寧ろ、ポケウォーカーの喪失はその序章だったのかと私は今になって思っている…
東日本大震災からしばらくした後、私は久々に集まりに参加した。
久々に直に会った相手は、ちょうど全てが始まった時に偶然会い、それから交流を始めた人だった。
その人、そして他の参加者達と夜遅くまで楽しい時を過ごした。
私にとってその時の交流は、今まで以上に充実した時間だった。
人との交流は、こんなに楽しいものだったんだね…
私は当たり前のように大事な事を身をもって実感した。
次回はいつになるかわからないというわけだが、少なくとも私が合格した後というのは前提とされていたので、気長に待つ事にした。
いずれにせよ、次回の集まりも楽しみにしている。
そう思いながら、私は浜松町を後にした。
次なる集まりは、ヨコハマだった。
この時が私にとってひとまず見納めの集まりだった。
桜木町での集まりもトウキョーに負けない充実感があった。
私を暖かく出迎えてくれる参加者達は、友人がいないに等しかった私にとって最高の支えだった。
その集まりで私は今回がひとまず見納めという宣言をした。
次は少なくとも試験が終わったら、最高でも合格したらという約束を交わして桜木町を後にした。
宣言した以上は、責任を持たなければならない。
私は復帰の時をバネにラストスパートを頑張ろうとスタリバ時代終盤以来の誓いをたてたのだった。
わざわざ記事で私の事を取り上げてくれたのも俄然戦いへのやる気を奮い立たせる糧になった。
私の事をこんなにも思ってくれてる人がいる。
それだけで私は最高に嬉しかった。
それから約2ヶ月後、私はその心境と共に戦いに望んだ。
試験には受からなかったが、まだ終わりじゃないという事とその先に待っている集まりが支えになり、私は気持ちを切り換え、再戦を誓った。
私が試験を諦めなかったのは、これからの事とそれを待っている人がいたからだった。
受からず仕舞いという失ったものは数えず、これからの事という残されたものを前向きに数える事ができたのもまだチャンスがあるだけではなく、そういう支えもあったからだった。
当初は、久々の挫折でかなり響いたが、(数日ろくに食事もできなかったほど)私が立ち直れたのは、それがあったからだ。
今日になって、私は支えがある事のよさを初めて実感したのだった。
しかし、その6月から私の日々は壊れ始めた。
合格出来なかった事への挫折による一時的な暴走によって、私は今までやりも考えもしなかった事を仕出かしてしまった。
その時、私は初めて実感する事となった。
『ネットワーク界の関係の軽さ』、そして…『ネットワーク界の痛み』という事を…
私はそれにより、しばらく精神科に通う事になり、悪化すれば入院にもなりかねないほどにまで追い込まれた。
ネットワーク界がこれほど痛ましいものだったとはと身をもって痛感した瞬間だった。
暴走した事への懺悔録を投稿して、私はあらためてやり直そうと宣言して、この事態はひとまず収束した。
周囲も、私から離れずにその後も私との交流を再び続けてくれた。
これならもう暴走する事もなく、そして公務員試験のための支えとしてあらためて頑張れる、そう私は思っていた…
懺悔録を投稿して、謹慎していた時、私のもとに個人からの連絡が届いていた。
その相手は、私と交流した事のある人だった。
一体何の用かなと思い開けてみた。
その内容は、身に覚えのない事への苦情と私への絶縁に相当する内容だった。
…これって何の話…?
私こんな事した覚えないのに…?
その後もそのメールは続くように送り付けられた。
最終的には、ただの悪口としか言えない内容へと変貌していった。
あの暴走の件については、謝罪してもう許してもらったはずなのにどうしてこんな事を…
不意打ちのようなこの仕打ちは、私に再び大きな傷を与えた…
何がどうなっているのか私にはもうわからなかった。
理由も話さず、ただあんな事を言ってきたり、私が普通にしていても何かとああ言えばこう言うみたいな仕打ちをされる…
私がその後何をしたと言うんだ…
ただそればかりが過ぎっていた…
その広がりは、いつの間にか寛容な相手にも及んだ。
最終的に私はとうとう最後の信頼を得ていた相手からも見放され、完全に孤立してしまった…
私はもう慟哭する気力すら残されていなかった…
2008年の挫折も全ては、2009年から築き上げてきた事があったからこそ乗り越えられた。
不本意な受け止め方をしていた私に誇りを持たせてくれたのもその時、そしてその交流があったからだった…
今になって思えば、私にとってここでの交流、そしてそれによって築き上げたものは私の全てだった。
サークルやゼミに入るような大学生として当たり前の事をしないでそのために頑張って過ごしてきた…
2009年から始まった交流は、サークルに相当するほど私にとって最高に充実した日だった。
公務員試験に受からなかった後も、これからの交流が続く事を知った時からまだ頑張れると今まで想像した事もなかった前向き思考を持てるようになった。
来年度の試験に必ず合格するために、そのメリハリとしてまた集まりに参加しよう。
そしてその交流をバネにあらためて頑張ろう、そう私は初めて思った。
その矢先、私は生涯初めての経験を再び実感する事となった…
けど…どんな事実であろうと、東日本大震災と比べれば私などどうだっていい事なのだろう…
おじいちゃんを亡くした事から始まった壊れゆく日々…
おじいちゃんへの悲哀は、その時と比べて今はもうそれほど起きてはいない。
けど、そういう事なら、それだけで終わってほしかった…
6月から、梅雨空のように私の日々は、曇り空を超越して日の昇らない空になっていった…
それも次の月になる頃には、だいぶ収まりあらためて明るい日々に切り替えていこうと思った矢先…
身に覚えのない事で、信頼していた人から急に手を切られる発言をされ、私は再び心を病むような心情に戻された…
理由も話さないまま、ただ私を一方的に責める発言…
不意打ちのような、何より理由も話さず身勝手な形で私は言いたい放題言われた…
話し合いをしたくても、聞いてくれず、さらに責めはエスカレートした。
このまま水掛け論をしても埒が開かないと悟った私は、反論するのをやめる事にした。
それからというもの、その人とは寄りを戻す事はなかった…
つい最近まで、普通に交流していた相手が急に何の理由も言わずに縁を切った…しかも、それから私を責めるだけしかせず、まるで今までの交流が嘘だったかのような実状へと変わってしまった。
これほど痛ましい事が他にあるだろうか…
今回は進路を決める機会を失い、その後に2009年から積み重ねてきた支えや交流仲間を失い、風評による評判を失い、集まりの機会を失い、最後の信頼の相手さえも失い、私は一人になった…
私の中には、もうあの時の楽しさも充実感も残されていない。
数えられる残されたものは…何一つ残らなかった…
私がここで築き上げてきたものは、皮肉にも同じここで全て壊される事となった…
今年度の出会いや交流は、貧乏くじだったとでも言うのか…?
今までの事は、全部夢だったとでも言うの…?
最初から私と交流したのも全て嘘だったとでも言うの…?
東日本大震災と共に、2011年という日々を私はこれからも忘れる事はないだろう…
どんな楽しい日々も…
どんな深い交流があろうとも…
それは、一つの行いだけで簡単に壊れ、そこに過去の事を提示しても意味をなさない…
私は…その日々を何一つ取り戻す事はできなかった…
ここに書き記した事も…それによって築き上げたものも…
今となっては、ただの過去にも思えないような…そんな壊れゆく日々の中で崩壊の一途をたどっているだけ…
私は何一つ…築き上げた日々を取り戻す事はできなかった…
ここから始まり、それから様々な交流や出会いを築き、ついには直に会う事にまで発展して、ネットワークを超越した直の交流により、今までにない楽しい日々に巡り会った。
そのきっかけは、さらに広がり時に大勢、時に県を大きく離れ、遠征をする形での出会いにまで広がり、充実感はさらなる発展を遂げ、私は初めて生き甲斐というものを見つける事となった。
そんな楽しく充実した日々も今では過去の話…
過ぎ去った事だけでは終われない…最初からなかった事のよう…
2009年から始まった事の全ては、一つも取り戻す事なく…私から消えていった…
全てはこの時があったから…
築き上げたものがあったから…私は頑張れた…
きっかけから2年過ぎた時に築き上げたものは今までないほど大きいものだった…
築き上げたもの、過ごした日々…
その全てが私にとって最高の宝物だった…
それも…今となっては…
私が過ごした2年は…
何だったのかな…