空はどちらとも言えないような様子だった。

寒いと直に感じるほどではなかったが、だからといって暖かいと直に感じるほどでもない。

明るい時もあれば曇る時もある。

雲が多いから今日は曇り時々晴れって言った方が正しいかな?



1限目は憲法人権保障論。

信教の自由と政教分離についてをやった。

信教については江戸時代から仏教のみ認められていた事は有名である。

信教の自由はこれを規制する制度である。

規定は憲法20条で、主な内容は信仰する宗教を個人が任意に決定できる事を保障する事である。

国家によって踏み絵のような信仰している宗教の告白を強制させられたり、内村鑑三の時のように信仰や不信仰を理由に差別を受けたり、宗教に合わせた教育を受けるのを強制させられたりする事は絶対的に禁止される。

ただし、地鎮祭のように必要不可欠な目的を達成するための必要最小限の手段である場合は例外である。

政教分離とは、国家による宗教の補助などを禁止する国民の信教の自由を保障する制度である。

かつて明治の頃に中山みきの天理教や川手文治郎の金光教などのように国家の補助を受けた信教があった。

だが、これは実質信教が国と似た力を持つ事になるため、信仰の強制をする事に成り兼ねなかった。

そのため、信教の自由を促すために政教分離の制度が出される事になった。

政教分離の原則は、国家行為の目的が世俗目的(非宗教的行為)か、効果が特定の宗教を助長・抑圧する事になるか、宗教と過度の関わりを持っているかによって決まる。

これを目的効果基準と言う。

過去に国家の予算を神社の玉串料に使った事がこれにひっかかり違憲となった事件があった。

これは特定の宗教を国教化して信教の自由を迫害する事になる。

今回ばかりでもそれがひそかに続く事に成り兼ねないので、こういう審査をしたと言っても過言ではない。


2限目は憲法統治機構論。

違憲審査の限界についてをやった。

憲法というのは国家と個人の間の関係を規律する法であり、国家に関係する事や自律的な法規範を持つ社会・団体については適応があるのかが疑問視されている。

代表的な判例は、スタリバの前身である砂川基地についての訴訟である。

これは高度な政治規模の事で、これを変える事は政治そのものを変える事にも成り兼ねないという理由で憲法は介入しない事になっている。

これは国家が国家を訴訟している事なので、憲法は介入しない事になっている。

それとは違い、国家と個人のような関係があっても自分の組織の法でおさめられている社会や団体の場合も憲法が介入しない場合がある。


こういうのを「部分社会の法理」と呼ぶ。

意味は、自律的な法規範を持ち、一般市民法秩序とは直に関連性を持たない内部紛争には司法審査の対象にはしないという考えである。

こういうケースは、団体の内容によって違憲審査をするかしないかが問われている。

地方議会の場合は懲罰権による出席停止は法理によって肯定されるが、除名の場合は司法審査が及ぶ事になる。

大学の場合は単位認定は内部問題なので、司法審査は及ばないが、卒業認定の妥当性については司法審査が及ぶ。

…法の力ではなく、自分自身の力てどうにかしろというわけだ。

ま、そりゃそうだよね。


3限目は商取引法。

運送取扱営業についての続きをやった。

運送中に何らかの理由で運送物を破損して、それを知っていたにもかかわらずそれを報告しなかった時はその運送人が損害賠償請求をされる事になる。

そういうのを悪意というのだが、その悪意の範囲をどこまで適応するかが問題となっている。

また、倉庫営業についてもやった。

これは他人のために物品を倉庫に保管する事を業とする者の事を言う。

ここでいう倉庫は、イナバ物置みたいな客観的に倉庫と思えるものでなくても、保管に適した設備があれば事足りる。

ちなみに不動産の管理をするのは倉庫には含まれない。

保管期間は、入庫の日から6ヶ月、約款がある場合は3ヶ月になる。


4限目は倫理学。

医療倫理についての続きをやった。

臓器移植について、2009年にその対象を広げて以前より移植提供がやりやすくなった。

これは臓器移植しなければ助からない患者を一人でも多く救うための魂胆を理由に制定されたものだという。

倫理においてはどういう人を提供可能にするのが妥当なのだろうか。

過去に極刑にされる囚人が臓器提供をする事を意思表示したというのに病院側はこれを受け入れなかったケースがある。

それは悪人の臓器はほしくないという筋の通らない理由なのか、当時の民法が臓器提供の範囲を狭くしていたからなのか。


現実では多くの人を救えるケースが多くなるかもしれないが、倫理的にはどう判断するべきなのか今でも議論されてるとの事だ。

また、代理出産についても倫理的議論が成されている。

どうしても子孫がほしいという理由で子を産めない人の気持ちを配慮した事が代理出産という方法を生んだ。

例えどんな理由があるにせよ、現実の見解では代理出産した人が産んだ子である以上、依頼した人の子にはなれないというのが根本的に可能なのだろうか。

自分で産んだ子だけに例え代理出産でも引き渡せないというケースも増えてきてるという。

医療関係の倫理は医療が発展する毎にまた新たな問題を生み続ける事になるかもしれない。



しばらくして私は東京ドームシティに向かった。

今年行くのは今日を含め、あと2回になる。

だいぶ暗くなってきてるので、そろそろイルミネーションもついてる頃である。