世界文化遺産『紀伊山地の霊場と参詣道』の構成遺産の寺社を巡る旅の初日(令和元年9月21日(土))、熊野本宮大社の参拝を終えた私たちは、交代で運転しながら、和歌山県伊都郡九度山町の慈尊院(じそんいん)へと向かいました。
◇谷瀬の吊り橋
熊野本宮大社から慈尊院までは、熊野川(十津川・天ノ川)沿いを北上します。
十津川は、熊野本宮大社の鎮座する和歌山県田辺市本宮町で北山川と合流し、そこから下流では熊野川と名を変えます。
また、十津川は、奈良県吉野郡天川村、奈良県五條市では、天ノ川(てんのかわ)と名を変えます。
下流から川沿いを遡っていくと、五條市で天ノ川が大きく東に曲がるので、そこで天ノ川沿いを離れ、さらに北上し、今度は丹生川(にゅうがわ)沿いを北上していきます。
丹生川は、吉野川の支流で、五條市の市街地の南側で吉野川と合流し、西に向かって流れ、和歌山県内に入ると、紀の川と名を変えます。
この丹生川と吉野川の合流するところから、吉野川沿いに西に進むと、和歌山県伊都郡九度山町の慈尊院に着きます。
熊野本宮大社から慈尊院まで、約130kmの道のりなのですが、その通り道である奈良県吉野郡十津川村に、「日本一の吊り橋」と称される谷瀬の吊り橋があるので、そこに寄っていくことにしました。
(谷瀬の吊り橋)
谷瀬の吊り橋は、川面からの高さが54m、長さ297.7mで、昭和29年(1954年)に架橋された当時は、日本一長い歩道吊り橋でしたが、平成6年(1994年)に茨城県の竜神大吊橋が完成し、日本一の歩道吊り橋の座を譲りました。
K井さんとN松さんは、対岸まで渡って戻ってくると言って歩いて行ったのですが、私は高いところが苦手なので、ほんの少しだけ吊り橋を歩いて、写真だけ撮って、すぐに引き返しました。
(谷瀬の吊り橋)
観覧車や東京タワーの展望台のように、転落する可能性が皆無の場合は全く怖くないのですが、この吊り橋は、金網で完全にガードされていて転んでも橋から転落することはないようにも思えるのですが、写真のとおり、金網は人の肩の高さぐらいまでしかありませんので、乗り越えよう思えば、乗り越えられます。
他の吊り橋に比べてハンガーケーブル(橋を吊っているケーブル)の強度が強いのか、揺れは比較的少ないものの、それでも多くの人が同時に渡るとそれなりに揺れるので、けっこう怖かったです。
(谷瀬の吊り橋)
これまでこのメンバーで熊野古道を歩くときに、この谷瀬の吊り橋よりも揺れる吊り橋を渡ったことがありました。その時は、その吊り橋が熊野古道のルートになっていて、渡らないとその先に進めない状況となったので覚悟を決めて渡りましたが、今回は渡らなくてはいけない必然性はありません。
(谷瀬の吊り橋)
結局、少しだけ歩いてすぐに引き返し、橋の袂で写真を撮り、二人を待つことにしました。
◇慈尊院
谷瀬の吊り橋を後にした私たちは、慈尊院へと向かいました。
慈尊院は、高野山の参詣道である町石道の起点となっているお寺で、私も町石道を2回歩いたので、そのたびに訪れたお寺です。
(慈尊院/多宝塔)
弘仁7年(816年)、弘法大師(空海)が嵯峨天皇から高野山を賜った際、この九度山の雨引山麓に高野山への表玄関として伽藍を創建し、高野山一山の庶務を司る政所を置きました。
高齢となった弘法大師(空海)の母・阿刀氏(玉依御前)は、讃岐国多度郡(現香川県善通寺市)から遥々高野山を一目見ようと高野山を訪れましたが、当時の高野山は女人禁制となっていたため、阿刀氏はこの政所に滞在しました。
弘法大師(空海)の母・阿刀氏は承和2年(835年)2月5日に亡くなったのですが、そのとき、弘法大師(空海)は弥勒菩薩の霊夢を見たので、廟堂を建立し、自作の弥勒菩薩像と母・阿刀氏の霊を祀ったそうです。
弥勒菩薩の別名を「慈尊」と呼ぶことから、この政所が慈尊院と呼ばれるようになりました。
ちなみに、九度山という地名も、弘法大師(空海)に由来しています。
弘法大師(空海)は、高野山が女人禁制であったため、ひと月に9回は表参道である町石道を下って母・阿刀氏を訪ねていたそうで、それが「九度山」という地名の由来になったそうです。
本堂を参拝した私たちは、本堂裏の納経所で御朱印をいただきました。
(慈尊院/御朱印)
◇丹生官省符神社
慈尊院の本堂から参道を南に歩いていくと、丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)があります。
丹生官省符神社は、弘仁7年(816年)に、慈尊院と共に弘法大師(空海)が創建した社です。
弘法大師(空海)の高野山開山には、次のような伝説が語り継がれています。
弘法大師(空海)は、第16次遣唐使で留学僧として唐の長安に渡り、留学を終えて帰国する時、「私が受け継いだ密教を広めるためにふさわしい地(修禅道場)を示したまえ。」と願いを込め、三鈷杵(さんこしょ。密教法具の1つ)を、出航する港から東の空に向けて投げました。
三鈷杵は金色の光を放ちながら、紫雲の中に消えていきました。
日本に帰国した弘法大師(空海)は、修禅道場にふさわしい地を探す旅に出ました。
ある日、白と黒の二匹の犬を連れた猟師に出会います。
その猟師は、「良い場所があるので案内しましょう。」と言い、二匹の犬に先導させて、弘法大師(空海)を高野山へと導いたそうです。
この猟師は、高野山の地主神である狩場明神(高野御子大神)だったいわれています。
高野山にたどり着いた弘法大師(空海)は、山の途中にある神社で一泊しました。
そこには、その神社の祭神である丹生都比売大神(にうつひめのおおかみ。別名:稚日女尊(わかひるめのみこと))がいて、「私は、この山の主です。この山をそっくりあなたに差し上げましょう。」と弘法大師(空海)に告げました。
こうして、弘法大師(空海)は狩場明神と丹生都比売大神の2柱の神様から高野山に修禅道場を開く許しを得た上に、さらに「高野山に伽藍や大塔を作る手助けをしましょう。」という申し出を受けたのです。
京の都に戻った弘法大師(空海)は、嵯峨天皇に高野山の下賜を申し出て下賜を受け、高野山の開創に取りかかりました。
その後まもなく、弘法大師(空海)は、高野山の松の枝に三鈷杵が引っ掛かっているのを発見します。
その三鈷杵は、何と、唐の港から日本のある東に向けて放った三鈷杵でした。
松葉は通常二枚なのですが、三鈷杵が引っ掛かっていたこの松の松葉は、三枚の葉もあったそうです。
この松は、「三鈷の松」と呼ばれるようになり、現在も、高野山の壇上伽藍の根本大塔の前に有ります。
この弘法大師(空海)を導いた丹生都比売大神、高野御子大神(狩場明神)を祀る神社が、丹生官省符神社(にうかんしょうぶじんじゃ)です。
ちなみに、弘法大師(空海)が一泊した神社というのが、この後に訪れる丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)です。
仏教の真言宗の開祖である弘法大師(空海)が、神社を創建したことに違和感を抱く方もいらっしゃるかもしれませんが、弘法大師(空海)は、真言密教の高度な理論を用いて日本の伝統的な神々を仏法守護の神(権現)として位置付け、神仏習合を体系化し、その基盤を築いた人なのです。
(丹生官省符神社/拝殿)
拝殿で参拝を終えた私たちは、拝殿に向かって右手の方にある社務所で御朱印をいただきました。
(丹生官省符神社/御朱印)
◇次回予告
丹生官省符神社の参拝を終えた私たちは、和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野に鎮座する丹生都比売神社に向かったのですが、次回はそのお話からさせていただきます。
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