新宮駅近くの「かつ田」で昼食をとった私たちは、交代で運転しながら熊野川沿いを北上し、和歌山県田辺市本宮町に鎮座する熊野本宮大社へと向かいました。
◇熊野本宮大社
これまで熊野本宮大社を参拝する時は、何日も長距離を歩き続けた後だったので、満身創痍で到着することが多かったのですが、今回は初めて自動車での参拝となりました。
(熊野本宮大社/一の鳥居)
階段の先の神門を潜り、本殿を参拝しました。
(熊野本宮大社/本殿)
『婆娑羅日記Vol.23~大峯南奥駈道縦走記in2015⑧(大黒天神岳⇒熊野本宮大社)』などでもお話しさせていただきましたが、熊野本宮大社の社伝によると、熊野本宮大社の由緒は、次のように伝えられています。
~古代、熊野の地を治めた熊野国造家の祖神である天火明命(あめのほあかりのみこと)の息子である高倉下(たかくらじ)が、初代神武天皇が九州の日向から大和に東征するに際し、熊野で天剣「布都御魂(ふつのみたま)」 を献じて、初代神武天皇をお迎えしました。
そして、その時に、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)が、天より八咫烏(やたがらす)を遣わし、神武天皇を大和の橿原まで導かれました。
第十代崇神天皇の御代、旧社地大斎原の櫟(いちい)の巨木に、三体の月が降臨しました。天火明命の孫に当たる熊野連(くまののむらじ)は、これを不思議に思い「天高くにあるはずの月が、どうしてこのような低いところに降りてこられたのですか。」と尋ねました。
そうすると、真ん中にある月が、「我は證誠大権現(家都美御子大神(けつみみこのおおみかみ))であり、両側の月は両所権現(熊野夫須美大神・速玉之男大神)である。社殿を創って齋き祀れ」とお答えになりました。
この神勅により、熊野本宮大社の社殿が大斎原(おおゆのはら)に創建されました。~
このようにして、熊野川、音無川、岩田川の合流点である大斎原と呼ばれる中洲に建てられた熊野本宮大社の社殿ですが、明治22年(1889年)8月の大水害で社殿のほとんどが流される中、水害を免れた4社が、現在の地に遷座したのですが、その4社が現在の本殿として建ち並んでいます。
さて、上記で引用した熊野本宮大社の社伝は、出雲口伝から紐解くには、重要な情報が多くちりばめられています。
『婆娑羅日記Vol.51~熊野古道中辺路旅行記後編in2018⑭(請川の登り口→熊野本宮大社)』でも、出雲口伝から熊野本宮大社について考察していますが、今回も出雲口伝の内容を要約しながら、出雲本宮大社について改めて考察してみたいと思います。
元々、秦に滅ぼされた斉の王族であった徐福は、秦の始皇帝のために不老不死の仙薬を探しに行くと伝えて倭国に向けて出航し、石見国の五十猛(いそたけ)の磯に着き、倭国風の名前として火明(ほあかり)と名乗りました。
徐福は、出雲王国の第8代大穴持(主王)の八千矛(大国主)の娘の高照姫と結婚し、長男の五十猛(いそたけ)を生みました。
その後、徐福が連れてきた童男童女(海童)によって、第8代大穴持の八千矛と、第8代少名彦(副王)の八重波津身(言治主・事代主)は別々に拉致され、洞窟に幽閉され、枯死します。
それにより処刑されるかもしれないと思った火明(ほあかり)は、秦に逃げ帰りました。
その後、徐福は再び倭国に渡来し、北九州の筑紫平野に上陸し、今度は饒速日(にぎはやひ)と名乗りました。
饒速日が娶ったのが、出雲王家の分家である宗像家の三姉妹の三女の市杵島姫(いちきしまひめ)で、饒速日と市杵島姫は、彦火火出見(ひこほほでみ)と穂屋姫を産みました。
饒速日は火明と名乗っていたときの妻である高照姫との間の子である五十猛に、饒速日と名乗ってからの妻である市杵島姫との間の子である穂屋姫を嫁がせ、その間に天村雲(あめのむらくも。「天叢雲」とも表記)が生まれました。
この天村雲が神武天皇のモデルとなった初代大王(初代天皇)であると、出雲口伝は伝えています。
なお、五十猛は後に香語山(かごやま)と名乗っています。
この饒速日の子である彦火火出見が九州で勢力を拡大していました(この勢力を出雲口伝では便宜上「物部王国」と呼んでいます。)。
物部王国では、彦火火出見から数代後の日子波限建(ひこなぎさたけ)の御子の五瀬(いつせ)が、弟の宇摩志麻遅(うましまじ)と協議し、大和の葛城王国が内乱状態になったとの知らせを受け、大和に進軍します。
これが、前回お話しした第一次物部東征です。
この第一次物部東征で、紀ノ川河口から紀ノ川を遡って大和に進軍しようとした五瀬ですが、名草村の戸畔(とべ。女村長のこと。)率いる軍勢に毒矢を射かけられ、五瀬は戦死し、弟の宇摩志麻遅が物部勢の指揮官となります。宇摩志麻遅は、上陸軍に船に戻るよう命じ、南の潮岬をまわり、熊野浦付近に上陸しました。
物部勢の中心船団は熊野川を遡ってその沿岸に上陸しましたが、ゲリラ攻撃を受けたため、物部氏の親族と豪族は、熊野川の中州に住み、そこに社が作られ、名草で亡くなった五瀬が祀られました。
以上の出雲口伝を踏まえて、改めて熊野本宮大社の社伝を見てみると、熊野国造家の祖神である火明の息子である高倉下が、初代神武天皇の神武東征に際し、熊野で天剣「布都御魂」 を献じて、初代神武天皇をお迎えしたと記しているのですが、出雲口伝でも、高倉下は火明こと徐福と高照姫の次男とされています。したがって、高倉下は、初代大王の天村雲の父である香語山の弟でもあります。
初代大王の天村雲の父の香語山と母の高照姫は丹波に移住し、この子孫が海部氏(あまうじ)となっていくのですが、この丹波勢力と天村雲の実家でもある出雲王国の一部の勢力が大和に移住し、天村雲が初代大王に即位します。天村雲が即位した大和の国を、出雲口伝では「葛城王国」と呼んでいますので、私もそれに従います。
このように、初代大王は、神武東征に記されたような武力制圧によって大和で即位したのではなく、出雲王国の勢力と同族である丹波の勢力が手を組み、大和に移住する形で平和裏に葛城王国を立ち上げたわけです。
これに対し、第一次物部東征は九州の物部王国による大和の武力制圧で、このときに大和で徹底抗戦したのが、天村雲の血を引く御子の大彦(おおひこ)でした。
大彦は笛吹の東北の曽大根(現在の奈良県大和高田市)で育ったため、別名を中曽大根彦(なかそおねひこ)といいます。記紀では、「長脛彦」(ながすねひこ)の字が当てられ、神武東征に対して徹底抗戦した大和の豪族として描かれています。
記紀では、この長髄彦とは別人として大彦命(おおひこのみこと)も登場させていますが、記紀での大彦は漢風諡号で孝元天皇と呼ばれる第8代国玖琉大王(くにくるおおきみ)の子とされていますが、出雲口伝によると、国玖琉大王の父で、漢風諡号で孝霊天皇と呼ばれる第7代賦斗邇大王(ふとにおおきみ)の子が大彦であると伝えられています。
葛城王国は、火明こと徐福の長男である五十猛の子の天村雲に始まる国で、第一次物部東征に徹底抗戦したのが天村雲の血を引く大彦で、他方、第一次物部東征によって大和に進軍したのは、饒速日こと徐福の子孫の五瀬と宇摩志麻遅の兄弟で、宇摩志麻遅は物部氏の祖となっていきます。
五十猛の母は、出雲王国第8代大穴持の八千矛(大国主)の娘の高照姫で、彦火火出見の母は、出雲王国の分家の宗像家の三女の市杵島姫なので、結局、徐福と出雲王家の王族の間に生まれた遠い親戚同士が、大和の地で激突したという構図なのです。
熊野本宮大社の社伝には、高倉下が神武天皇に授けた天剣の名を「布都御魂(ふつのみたま)」としていますが、奈良県天理市に鎮座する物部氏の総氏神の石上神宮は、『古事記』では「石上坐布都御魂神社(いそのかみにますふつのみたまじんじゃ)」との別称も記されています。さらに石上神宮の主祭神の1柱の名は「布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)」です。
ちなみに、石上神宮の配祀神の1柱として物部氏の祖となった宇摩志麻遅も祀られています。石上神宮では、宇摩志麻遅を饒速日の息子と記していますが、出雲口伝では宇摩志麻遅は饒速日の数代後の子孫です。
そして、出雲口伝では、第一次物部東征で物部勢が駐屯したのが熊野川の中州で、そこに第一次物部東征で戦死した五瀬を祀ったと伝えています。この中州が、熊野本宮大社の旧社地で、現在、大斎原(おおゆのはら)と呼ばれている聖地です。
このように、熊野本宮大社の社伝に記された神武東征の逸話を見ると、この神武東征が、出雲口伝の伝えるように実は九州の物部王国の東征であったことを匂わせる事実が多数ちりばめられていたのは、衝撃でした。これを見ると、熊野本宮大社は、神武東征の真相が出雲口伝が伝える内容に近いことを知っていたのではないかと思われてなりません。
ところで、熊野本宮大社の第三殿に祀られている熊野本宮大社の主祭神の1柱は家都美御子大神ですが、あまり聞き慣れない神です。この神の素性には諸説あるのですが、素戔嗚尊(すさのおのみこと)のことであるとの説が有力です。
出雲口伝では、最初に倭国に上陸して火明と名乗った徐福が引き連れてきた海童が、出雲王国の第8代大穴持の八千矛と第8代少名彦の八重波津身を拉致監禁して枯死させたことから、その火明の悪事を、記紀では素戔嗚尊が様々な悪事を行ったという形で記したと伝えております。したがって、出雲口伝では、素戔嗚尊=火明=饒速日=徐福であると伝えているわけです。
このように考えると、聞きなれない家都美御子大神が素戔嗚尊の別名であるということは、出雲口伝における第一次物部東征の伝承からするととても腑に落ちる話だと思います。
本殿の参拝を終えた私たちは、木製の御朱印帳に御朱印をいただきました。
(熊野本宮大社/御朱印)
◇次回予告
熊野本宮大社を後にした私たちは、この後、和歌山県伊都郡九度山町の慈尊院に向かうのですが、その前に、日本一の吊り橋とされている谷瀬の吊り橋に向かったのですが、次回はそのお話からさせていただきます。
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