ブラックタイアフェアー物語 | 名馬物語 | トレンド競馬

ブラックタイアフェアー物語

 生涯成績、45戦18勝。2歳からコツコツと勝鞍を積み重ね、5歳で本格化した晩成型。その間故障一つなくコンスタントに走り続けた。何しろ調教師が「地球の反対側まで走って往復してもけろっとしてるんじゃないか」と言ったほどタフな馬だった。デビュー当初から注目を集める逸材ではなかったが、最終的には購入額の25倍あまりの賞金を稼いだ馬主孝行だ。なんだか、一度も欠勤せずに黙々と自分の仕事をこなし、定年間際に一花咲かせて退職したサラリーマンのヒーローという感じだ。






 母ハットタブガール(父アルハタブ)はアメリカで3シーズン走り、コーラルゲーブルズHなどを勝った後、オーナーだったスティーブン・ペスコフによってアイルランドに送られ、そこで1986年にブラックタイアフェアーを産んだ。父はミスワキ。今でこそ、ミスタープロスペクターの後継種牡馬の中でも長距離向きというイメージが定着している同馬だが、この当時はまだ代表産駒となる名牝アーバンシー(凱旋門賞)も、JCを制すマーベラスクラウンも産まれておらず、重賞クラスの活躍馬は出していたものの、種牡馬としての評価が定まるには至っていなかった。その父にとって最初の大物産駒が他ならぬブラックタイアフェアーなのだが、その運命の仔馬は、1987年のサラトガ・イヤリング・セールで8万5千㌦でハドソンリヴァー・ファームに落札された。値段から考えても、この芦毛の牡馬が後に北米年度代表馬に選ばれるほどの活躍をすると予想できた者は、当時は皆無だったのだろう。






 ウォルター・C・リース調教師に預けられたブラックタイアフェアーは2歳の秋にデビューを果たす。フィラデルフィアパーク競馬場で1988年9月28日に6ハロンのデビュー戦を制し、続けて10月5日には同じコースで早くも2勝目を挙げた。その後もコンスタントに走り続け、2歳時の通算成績は8戦3勝、2着2回、3着1回。重賞には出走していないが、堅実な成績で着実に賞金を稼いでいる。そして、この当時から相当タフな馬だったことが出走回数からも伺える。3歳になると出走の間隔はさらに密になる。1月14日に早くもフィラデルフィアパークのレースに登場し、4着を果たすと、続いて2月には3回も出走し、それぞれ4着、2着、4着とまずまずの結果を残している。






 当時の関係者がどんなつもりでこのような使い方をしたのかは、コメントが残っていないので想像するしかない。稼げるうちに稼いでおこうという方針で馬を酷使したのではないかという穿った見方もできるが、よく見るとフィラデルフィアとニュージャージーという隣接した州の競馬場でしか走っていない。遠征して大きなレースを使うほどの成績ではなかったということもあるだろうし、もしかしたら調教代わりにレースを使うこともあったのかもしれない。いずれにせよ、ハードスケジュールでつぶれてしまうような馬ではなかったことは確かだ。
 シカゴ生まれのベテランホースマンがこのブラックタイアフェアーに目を留めたのはちょうどその頃だった。60代に差し掛かっていたアーニー・T・プーロス調教師は、シカゴ近郊でポンティアックという自動車のディーラー業を営むジェフ・サリバンから、手頃な値段でステークス・レースに出走できるような競走馬を手に入れたいのだが、と相談されていたのだ。当時のことを、プーロス調教師は次のように振り返る。






 「フィラデルフィアパーク競馬場やガーデンステート競馬場でそこそこの成績を挙げている牡馬がいる、と耳にしたので、ニュージャージーまで足を運んだんだ。そして、実際に走っているのを見た後、45枚のレントゲン写真に目を通したが、どこも問題はなかった。馬体もしっかりしていたし、耳が少し垂れているところも気に入った。垂耳の馬は結構よく走るんだよ」
 それがブラックタイアフェアーだった。元はセミプロのフットボール選手だったプーロス調教師の決断は早かった。






 「この馬だと思って、家に戻ってすぐにリース調教師に10万ドルの小切手を送ったんだ。ところが彼が電話してきて、その値段じゃ手放せない、って言うんだな。そこでもう1通、今度は2万5千㌦の小切手を送ったよ。それで取引成立さ」
 こうして合計12万5千㌦で転売されたブラックタイアフェアーは、以後ジェフ・サリバンの勝負服を背負うようになった。ちなみにそのデザインは頭に羽根を差したインディアンの横顔の図案を胸のところに染め抜いた個性的なものである。サリバンの会社が販売するポンティアック車の初期のモデルは、そのブランド名のもとになったカナダ原住民の首長にちなんでボンネットの先端にインディアンの像が付けられており、当時のポンティアックの看板にもインディアンの横顔のマークが使われていたので、これにヒントを得たものらしい。






 プーロス調教師への相談内容から想像されるとおり、サリバンは決して金の使いみちに困るような大富豪馬主ではない。イリノイ州のアーリントンパーク競馬場の近くに会社を構える40代前半の堅実な実業家で、資産家というほどではない。競馬が好きで、事業が軌道に乗って少し余裕が出てきた頃に何頭かのサラブレッドを入手し、憧れの馬主となった。それから4、5年が経つが、その間ずっと大儲けや大損失とは無縁のまま、道楽の範囲内で馬主としての楽しみを味わってきた。とかく派手なマネーゲームが話題になることの多いアメリカ競馬だが、その根幹を支えている馬主の大半は、このように比較的ささやかな規模で楽しんでいる人々である。
 プーロス調教師は転厩から2ヶ月が経った4月23日、イリノイ州のスポーツマンズパーク競馬場で行われるボールドフェイバリットHというレースにブラックタイアフェアーを出走させた。鞍上を務めるのはメキシコシティ生まれの若手騎手、エウシビオ・ラゾJrだった。彼はこれ以後、ブラックタイアフェアーの長い1989年シーズンを通じてその手綱を任されることになる。






 ブラックタイアフェアーはこのマイル戦をハナ差で制し、新しい関係者に早々に勝利をプレゼントした。






 陣営の顔ぶれが変わっても、ブラックタイアフェアーのレース間隔の短さは変わらなかった。やはり叩いて仕上げていくタイプだったのかもしれない。この1週間後の4月30日には同じ競馬場の6ハロン戦に出走し、コーナーで大きく外にふくれながらも3着を果たしている。






 続いて5月にもスポーツマンズパークで2度出走している。5月13日の8.5ハロン戦では、初めての距離が応えたのか最後に失速して4着に沈んだが、3位入線の馬が降着になったために繰り上がりの3着となった。そして5月27日、ブラックタイアフェアーはGⅡイリノイダービー(9ハロン)に出走を果たす。通算16戦目にして初の重賞挑戦だった。しかし、結果は出走7頭中の6着。それでも最後はなかなかいい脚を使ったのだが、ここではまだ歯が立たなかったということだろう。ちなみにこのレースは1着入線のノーテーションが2着に降格となり、代わってミュージックメルシーがタイトルを手にしている。






 プーロス調教師はこの後はしばらく一般レースを使っていくことにしたようだ。例によって2、3週おきにレースを使い続け、アローワンスレースと一般ハンデ戦を連勝した後、6ハロンのハンデ戦で一叩き(結果は2着)すると、再び重賞への挑戦を決めた。
 1989年9月16日、ブラックタイアフェアーは生涯2度目となる重賞挑戦を果たした。GⅢシェリダンS(1マイル)である。開催地のアーリントン国際競馬場は、そこに馬房を構えるアーニー・T・プーロス調教師にとっては文字通りの本拠地。また、競馬場の近くで自動車ディーラーを経営するオーナーのジェフ・サリバンにとっても地元であることには変わりない。






 このホームグラウンドで、ブラックタイアフェアーは嬉しい重賞初勝利を成し遂げたのだ。ゆったりとした流れの中、後方から素晴らしいスピードで追い込み、最後は2着バイオに半馬身差をつける完勝だった。勝ちタイムは良馬場にも関らずコースレコードより3.6秒も遅かったが、通算23戦目にして初の重賞タイトルは、やはりかけがえのないものだった。






 出走回数こそ多いが、ブラックタイアフェアーはまだ3歳。しかもここまで故障一つない丈夫な馬で、この先まだまだ成長が見込めそうだった。ここはひとつ、大きいところを狙ってみようとプーロス調教師が張り切ったとしても無理はない。ブラックタイアフェアーは一気にGⅠに挑戦することになったのである。それもただのGⅠではない。シーズンの総決算ともいえるアメリカ競馬の祭典、BCにいざ乗り込もうというのだ。狙いを定めたのは、ブラックタイアフェアーがここまで走り慣れてきた短距離戦のBCスプリントだった。
 毎年持ち回りのBCの開催会場は、この年はフロリダのガルフストリームパーク競馬場に決まっていた。サリバンに飛行機をチャーターする資金はないから、イリノイからフロリダまでは馬運車での移動だ。しかし、長旅の末に到着したBCの舞台で、ファンの反応は南国フロリダの気候のように暖かくはなかった。無名の挑戦者の単勝オッズは72.6倍で、出走13頭中の最低人気。さらに実際のレースは、その評価以上にブラックタイアフェアーにとって、そして他の多くの馬にとっても厳しいものとなった。






 ゲートが開いた直後に、12番枠から飛び出したサムフーが大きく内側に切れ込んでいき、この煽りを食らって複数の馬が玉突き衝突を起こした。ブラックタイアフェアーははじき出されるような形で隣のオンザラインという馬に激しくぶつかり、どうにか転倒だけは免れたが、オンザラインはこのときに負った怪我で予後不良となった。この2頭を筆頭に合計5、6頭が衝突に巻き込まれたようだ。レースは6ハロンの電撃戦、スタートから100㍍足らずでのこの不利はあまりにも痛い。完全にリズムを崩されたブラックタイアフェアーは結局9着に沈んだ(ただし、4位入線のサムフーが進路妨害によって13着に降着となったため、正式な着順は繰り上がりで8着)。勝ったのは直線で牝馬セイフリーケプトを差しきったダンシングスプリーだった。






 このように初のGⅠは後味の悪いものになってしまったが、幸いこのアクシデントでもブラックタイアフェアーは肉体的・精神的に深刻なダメージを被らずに済んだ。それでもこの後、デビュー後初めて4ヶ月もの休養を取っている。
 明けて1990年、4歳になったブラックタイアフェアーは3月24日にスポーツマンズパーク競馬場から始動する。鞍上はM・ギドリー騎手に替わった。シーズン初戦となったこのジャック・R・ジョンストン記念S(6ハロン)では、勝馬から6馬身離された2着に終わったものの、どうやらこの一叩きで実戦のカンを取り戻したようだった。4月12日、プーロス調教師はキーンランド競馬場でブラックタイアフェアーを4度目の重賞に出走させた。GⅢコモンウェルスBCH(7ハロン)である。単勝33倍と人気はまったくなかったが、圧倒的1番人気に推されたダンシングスプリーを5着に下して見事勝利をものにした。






 次走はまたしてもGⅠ。ニューヨークのアケダクト競馬場に遠征してのカーターH(7ハロン)だった。ここでは最後の伸びが足りず、勝ったダンシングスプリーから7馬身以上離された4着に終わった。さらに3週間後の5月28日には同じニューヨークのベルモントパーク競馬場で、マイルのGⅠメトロポリタンHに出走する。






 このレースには超大物が出走していた。前の年の3冠レースやBCでサンデーサイレンスと死闘を繰り広げたイージーゴーアである。2週間前にマイナーなステークスレースを7馬身半差で圧勝していたこの栗毛のスターホースが、当然ながら1.4倍という圧倒的な人気に推されていた。しかし、勝ったのはイージーゴーアではなく、同じアリダー産駒でもクリミナルタイプという人気薄の馬。本命馬は3着に敗れる波乱の結果となった。ブラックタイアフェアーはといえば、最後疲れて失速し、9頭立ての6着に沈んだ。






 2戦続けてGⅠでいいところのなかったブラックタイアフェアーは、この後再び地元に戻り、一般レースをいくつか消化する。そしてアーリントンパーク競馬場の1マイルのハンデ戦で勝利を挙げた後、同じアーリントンパークで行われるGⅢのエクィポイズマイルに出走。手綱を取るのは、殿堂入りを果たしたばかりの名手J・ヴェラスケス騎手だ。トップハンデの119ポンドが課されたが、軽ハンデで2番人気のバイオに3馬身半の差をつけ、重賞3勝目を挙げた。この後ルイジアナダウンズ競馬場での7ハロンのハンデ戦2着を挟んで、ブラックタイアフェアーはこの年もBCスプリントに挑戦する。今回の開催地は、ニューヨークのベルモントパーク競馬場だった。
 結果から言えば、ブラックタイアフェアーはこの年もBCを勝つことはできなかった。レースを制したのは、昨年2着に泣いた牝馬セイフリーケプトだったのだ。1番人気に推されたヨーロッパの最強スプリンター、デイジュールと直線で一騎打ちとなったのだが、最後にコース上の影に驚いたデイジュールがまるで障害を飛越するかのようにジャンプしてしまい、クビ差で勝利を逃したのは有名なエピソードだろう。ブラックタイアフェアーはこの2頭から4馬身差の3着に入り、数多くのレースをこなしながら着実に力をつけてきたことをうかがわせた。






 そんなブラックタイアフェアーにとって最大の転機となったのは、実はこのBCの次のレースだった。






 もともとプーロス調教師は10月27日のBCをブラックタイアフェアーのシーズン最終戦と考えており、この後はフロリダのオカラで冬を過ごさせるつもりにしていた。しかしサリバンが、試しに1ヵ月後に行われるGⅡホーソーンGCに走らせてみよう、と言い出したのだ。
 これは思い切った選択だった。このレースは10ハロンだが、ブラックタイアフェアーはマイルより長いレースは走ったことがない。前走のBCスプリントは6ハロンだ。単勝オッズ9倍で3番人気というあたり、ファンも半信半疑だったのだろう。1番人気はBCクラシックでアンブライドルドの4着に入ったライブリーワンだった。






 ところが、ブラックタイアフェアーは初めてコンビを組むJ・ディアス騎手を背に、最初から積極的なレース運びで、ミセレクトに1馬身半差をつけて優勝してしまったのだ。プーロスはBCの2日後から、毎朝欠かさずブラックタイアフェアーに2マイル半の調教をつけていたが、それが功を奏したのかもしれない。「距離が持つことは分かったから、これで今後の可能性が広がったよ」と、レース後にプーロスは顔をほころばせたが、「真面目な馬なんだ」とブラックタイアフェアー自身の頑張りを称えることも忘れなかった。






 10ハロンのホーソーンGCで強豪を下し、スプリンターというそれまでのイメージを覆したブラックタイアフェアーは、11戦4勝を挙げた長い4歳シーズンを終えて休養に入った。しかし、アーニー・プーロス調教師は一気に中長距離路線に転向させようとは思っていなかったようだ。翌年の初戦は3月23日、オークローンパーク競馬場のGⅡレザーバックH(8.5ハロン)で、ここは果敢なレース振りで3着。その後は7ハロンのGⅢコモンウェルスBCHで、前年のスプリントチャンピオン、ハウスバスターを下して連覇を達成した。しかし5月4日にはGⅠカーターHでそのハウスバスターの2着に敗れ、続いてGⅠメトロポリタンマイルは見せ場も作れずに9着に惨敗。相変わらずGⅠには手が届かない。






 プーロス調教師はここで再び、少し長い距離を試してみることにする。チャーチルダウンズ競馬場の9ハロンのGⅢスティーブンフォスターHに出走させたのだ。すると、ブラックタイアフェアーは2.2倍の1番人気に応えて2と3/4馬身差で快勝したのである。
 この結果に力を得て、プーロスは続いて7月にミシガンマイルアンドワンエイスH(9ハロン)に愛馬を送り込んだ。しかも今回はこれまでのディアス騎手に替えて、全米リーディングの常連であるパット・デイを鞍上に迎えたのである。それもあってか、出走11頭中122ポンドというトップハンデを背負いながらも1.6倍の1番人気に推された。
 デイの騎乗は終始自信溢れるものだった。人気薄のウィズアロングという馬が第3コーナーで一瞬競りかけてきた以外は、ほとんど単騎でマイペースの逃げを打ち、直線では一発の鞭も入らないまま後続を突き放して、粘るウィズアロングに2馬身半差をつける強い勝ち方を見せたのだ。






 レース後のインタビューでデイは、「朝の調教で跨っていたから馬の力は知っていた。今日は自信を持って乗ったよ。馬もそれに応えてくれた」と、ブラックタイアフェアーの実力を高く評価した。
 このレースを境にブラックタイアフェアーの何かが変わった。まるでデイの言葉が伝わったかのように、その走りからはこれまでにない自信と迫力が感じられるようになった。






 ミシガンマイルから1ヵ月後の8月11日、ネブラスカ州アクサーベン競馬場のGⅢコーンハスカーH(9ハロン)でも、ブラックタイアフェアーはやはり2倍を切る断然の1番人気となった。鞍上も前走と同じくパット・デイが務める。ハンデは今回さらに重くなって124ポンドだったが、結果は前走以上の楽勝だった。ブラックタイアフェアーは前走と同じように序盤からリードを奪うと、他馬には影をも踏ませぬ快走で、馬なりのまま2着ビデヴィルドを3馬身半突き放して優勝。引き上げてきたデイはオーナーのジェフ・サリバンに、「こんなに稼げる調教は初めてですよ」と冗談を飛ばしたほどだった。






 これで重賞3連勝。ブラックタイアフェアーが完全に本格化したのを見て、サリバンとプーロスは7度目となるGⅠ挑戦を決断した。9月1日にモンマスパーク競馬場で行われるフィリップ・H・アイズリンHである。「確実に勝てるレースを使うことも大切だが、この距離でトップクラスでも勝負になるかどうかを試してみたい」とサリバンは言った。どこまで通用するか確かめたい気持ちは調教師とて同じだった。デイも「馬が自信をつけ始めた今がチャンス」と挑戦を後押しした。
 このアイズリンHの1番人気は、GⅠハリウッドGCを制したマーケトリー。トップハンデ馬はそのGCの2着で、3月にはGⅠサンタアニタHを勝っているファーマウェイだった。ここでは挑戦者の立場のブラックタイアフェアーには、ファーマウェイより3ポンド少ない119ポンドが課された。
 控える競馬をしたいと考えていたパット・デイだったが、ブラックタイアフェアーがスタート直後から行きたがるそぶりを見せたので、逆らわずに先頭に立たせた。しかし、GⅠではなかなか楽に逃がしてはもらえない。レース前半はグリーンラインエクスプレスが、そして後半は有力馬ファーマウェイが、その直後にぴたりとつけてプレッシャーをかけてくる。それでも、名手デイは絶妙のペース判断でパートナーのスタミナを最後まで持たせた。直線でブラックタイアフェアーはデイの左鞭を嫌がり、何度か外にヨレてファーマウェイと接触したが、最後まで先頭を譲ることなく、ゴールではわずかクビ差ではあったが粘りきった。デビューから丸3年、通算43勝目で、ブラックタイアフェアーはついにGⅠを制したのだ。






 その2週間後の9月14日、GⅠホース・ブラックタイアフェアーは地元アーリントン競馬場に凱旋を果たした。GⅡワシントンパークH(9ハロン)である。今回はデイが同じレースに出走するサマースコールを選んだため、鞍上はシェーン・セラーズ騎手に乗り替わりとなったが、絶好調の芦毛の5歳馬にとっては乗り替わりも中1周も関係なかった。今回は逃げるシークレットハローを僅差の2番手で追走し、残り2ハロンほどで先頭に立つと、そのまま余裕の手応えで、2着サマースコールを7馬身半もぶっちぎって圧勝したのである。






 「最初はアイズリンからの間隔が短すぎるかと思ったんだが、調教でも素晴らしい時計を出していたのでレース前には全く心配していなかった」とプーロス。サリバンも、「今年の初めまではスプリンターか、せいぜいマイラーだと思っていたのに、この変身ぶりには驚いたね」と、9ハロンの重賞を4連勝した愛馬をねぎらった。そして調教師とオーナーは、この年もBCに挑戦する意向を明らかにしたのだ。ただし、出走レースをスプリントにするか、それとも10ハロンのクラシックにするかについて、2人はまだ心を決めかねていた。
 最終的にブラックタイアフェアーは、BCクラシックに出走し、そのレースを最後に引退することに決まった。4年間コンスタントに走りつづけた無事是名馬に、陣営は全米で最高賞金額を誇る大舞台での花道を用意したのである。それは、この馬に対する彼らの敬意と感謝の表れでもあったかもしれない。






 ブラックタイアフェアーにとって3度目のBC、そして初めての10ハロンのレースの舞台は、ケンタッキーのチャーチルダウンズ競馬場だった。11月2日のレースに向けて、彼はいつものように馬運車でケンタッキーにやってきた。しかし、前年のフロリダとは異なり、今度の彼は主役の1頭として登場したのである。初めてジェリー・ベイリー騎手を鞍上に迎えたブラックタイアフェアーは、単勝オッズ4倍でサマースコールと並ぶ2番人気に推されていた。






 ブラックタイアフェアーは、長い現役生活の最後にして最大のレースで、生涯最高の走りを見せた。






 序盤から比較的スローな流れに持ち込んだベイリー騎手の絶妙なペース判断も助けとなったに違いない。しかしそれ以上に人々の印象に強く残ったのは、ブラックタイアフェアーのタフな走りだった。彼はスタートからただの1度も他馬にトップを譲らず、終始1馬身から1馬身半ほどのリードを保ち、最後はトワイライトアジェンダの追撃を1と1/4馬身封じてアメリカのチャンピオンを決めるレースを制したのである。BCクラシック史上初の逃げ切り勝ちだった。






 地道に勝ち上がってきた「庶民派」のヒーローは、生涯最後のレースでついに全米の頂点を極めた。この年、多くのファンに希望を与えた芦毛のミスワキ産駒は北米年度代表馬に選ばれている。