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ブライアンズタイム物語

 サンデーサイレンスという1頭の青鹿毛馬の血統が日本のサラブレッド生産界を席巻するようになって、そろそろ10年が経とうとしている。そしてその間、リーディングサイアーランキングにおける「不動の2位」にあり続けてきたのがブライアンズタイムだ。






 しかし、大舞台で活躍する産駒のスケールの大きさでは、ブライアンズタイムはサンデーサイレンスと互角、いや、時にはそれ以上とさえ言われる。初年度産駒から3冠馬ナリタブライアンとオークス馬チョウカイキャロルを出し、その翌年も菊花賞・有馬記念を制したマヤノトップガンが年度代表馬に選ばれる活躍を見せる。さらに、皐月・ダービーの2冠馬サニーブライアン、牝馬GⅠ通算3勝のファレノプス、オークス馬シルクプリマドンナ、皐月賞馬ノーリーズンにダービー馬タニノギムレット…と、クラシックホースを挙げるだけでもこれだけの数だ。実際、産駒によるクラシック完全制覇を成し遂げたのはサンデーサイレンスより2年早い1998年のことだった。






 ところが、「クラシックサイアー」というイメージの強いブライアンズタイムの現役時代の成績は、意外にも地味なのである。しかし、この小柄な黒鹿毛の馬に込められた人々の想いは並ならぬものがあった。






 ブライアンズタイムは1985年、アメリカのサラブレッド生産の中心地であるケンタッキー州のレキシントン郊外にあるダービーダン・ファームに産まれた。
 オーナーブリーダーは、この牧場の創設者であるジョン・ガルブレイス氏である。1897年生まれのガルブレイスは、住宅建設ビジネスで成功し、1935年にダービー・クリークという川の近くに地所を購入する。
 息子のダンの名前を取ってダービーダン・ファームと名付けられたこのサラブレッド牧場の名が世界中に知られるようになったのは、1960年のシーズンのことだろう。この年、ガルブレイスは凱旋門賞を連覇したヨーロッパの至宝、リボーを5年間のリース契約でダービーダンに連れてくることに成功したのである。結局はリース期間終了後も死ぬまでこの地に留まることになったリボーは、種牡馬として大成功した。その後継種牡馬であるグロースタークに、ゴールデントレイルという牝馬を付けて産まれたケリーズデイが、ブライアンズタイムの母である。






 ブライアンズタイムの父ロベルトもやはりガルブレイスの生産馬で、父は種牡馬として大成功したヘイルトゥリーズン、母もガルブレイスの生産馬で1962年のCCAオークスを制した名牝ブラマリーである。ガルブレイスが所有する大リーグ球団ピッツバーグ・パイレーツの名選手、ロベルト・クレメンスにちなんで名付けられたロベルトは、1972年に英ダービーを制した。1967年のケンタッキーダービーをプラウドクラリオンで制していたガルブレイスは、オーナー・ブリーダーとしてこの両ダービーを勝った史上唯一人の人物である。
 彼の娘夫婦であるジェームズ・W・フィリップ夫妻の所有馬として登録されたブライアンズタイム。その名は、この牡馬と同じ年に生まれたガルブレイスの曾孫にあたるブライアン君の名前から取られたものだった。






 このようにブライアンズタイムは、ジョン・ガルブレイスというホースマンが関ってきた馬の歴史、そしてガルブレイス自身の家族の歴史を、ひとつに結集させたような存在だったのだ。
 しかし、ブライアンズタイムの2歳シーズンは、ガルブレイスの強い思い入れに応えるような華々しいものではなかった。8月のデビュー戦では5着。11月末に未勝利戦を勝ちあがるも、シーズン最後のアローワンス・レースではチコットカウンティにアタマ差の2着に敗れている。5月という遅生まれだったせいか小柄な馬体だったこと、そして血統的にも比較的晩生で長い距離が向いていそうだったことなどから、陣営は2歳時にはあまり無理をさせないことに決めていたのだ。






 ブライアンズタイムを預かるジョン・ヴィーチ調教師は、名門として知られるカルメット・ファームの専属調教師を長年務めてきた人物である。1940年代にワーラウェイやサイテーションといった3冠馬を出し、アメリカ生産界において並ぶ者なき名声を獲得したカルメットも、70年代には低迷にあえいでいた。それを救ったのがジョン・ヴィーチ調教師であり、彼の管理する名馬アリダーだった。アリダーは3冠レースでアファームドと歴史に残る名勝負を繰り広げ、結局はそのすべてに敗れるのだが、この栗毛馬の活躍がカルメットの咲かせた最後の花ということになった。ヴィーチは1984年から、凋落したカルメットに替わってガルブレイスの調教師を引き受けるようになっていたのである。
 名調教師は、早くからブライアンズタイムの素質に期待を寄せていた。「とても闘争心のある馬だ。カリカリするような神経質な気の強さはないが、喰らいついたら離さないような粘り強さがある」と、この馬の気性についてコメントしている。このヴィーチの下でブライアンズタイムは順調に冬を越し、1988年の3冠レースに向けて3歳シーズンを早々にスタートさせた。






 アメリカでは広い国土を利用して、冬季は南カリフォルニアやフロリダといった南国でレースが行われている。ブライアンズタイムのように東海岸を拠点とする馬がシーズンの早いうちに出走する場合、東海岸の最南端、フロリダに長期遠征することになる。
 ブライアンズタイムはまず1月にアローワンス・レースを勝って自身2勝目を挙げると、2月にフロリダのガルフストリーム・パークで行われるGⅡファウンテンオブユースS(8.5ハロン)に駒を進めた。これは、3冠レースを狙う東海岸の有力馬が出走することの多いレースで、事実この年も昨年の2歳チャンピオン、フォーティーナイナーが出走してきた。






 ステークス・レース初出走にしては、ここでのブライアンズタイムの走りは上出来だったといっていいだろう。レースは本命馬フォーティーナイナーが最初のコーナーから先頭に立ち、そのまま押し切ってノートブックをハナ差抑えて優勝した。後方につけたブライアンズタイムは、途中前が塞がる不利があったものの、終盤よく追い込んで1着馬から3馬身差の4着を果たした。
 しかし、ブライアンズタイムの名を全国区にしたのは、次走のフロリダダービー(GⅠ、9ハロン)での走りだった。3月5日に行われたこのダービーの重要なステップレースには、前走の1、2着馬であるフォーティーナイナーとノートブック、GⅠフラミンゴSの勝者チェロキーコロニーなど、非常にハイレベルなメンバーが揃った。






 レースは、エディ・メイプル騎手の跨るフォーティーナイナーがいつものように早い段階で先頭に立ち、その外からノートブックが競りかけていく。しかし第3コーナーに差し掛かるあたりでノートブックは脱落し、2歳チャンピオンは抜群の手応えで直線に向くと、そのまま一気に後続を突き放して圧勝するかと思われた。
 ところがそのとき、1頭の黒い馬が最後方から飛んできたのである。ランディ・ロメロ騎手が手綱を取るブライアンズタイムだった。実績では出走メンバーの中で格下となるブライアンズタイムは、34倍という穴人気でしかなかったが、ハンデはフォーティーナイナーより4ポンド軽い。それを生かして末脚勝負にかけた作戦はピタリとはまった。メイプル騎手は追い込んできたのがどの馬かすら気付く暇がなかったかもしれない。しかし、ゴールではブライアンズタイムがこのチャンピオンをクビ差抜き去っていた。






 3月に行われるケンタッキーダービーの重要なステップレースであるフロリダダービーを34倍という人気薄で制したブライアンズタイムの周囲は、ちょっとしたファミリー・パーティーの様相を呈していた。中心にいたのは90歳のジョン・ガルブレイスだ。ブライアンズタイムの生産者でもあるガルブレイス老は、さすがに多少健康を害し始めていたが、前年の暮れ頃までは毎日のように自分のオフィスに出勤していたほどの、かくしゃくたる人物だ。曾孫の名にちなんで名付けられたゆかりの深い血統の牡馬がダービー候補に名乗りを挙げたことを、ことさらに喜んでいたのは、恐らくこのガルブレイスだっただろう。






 ジョン・ヴィーチ調教師にとっては、1978年のアリダー、そして1985年のプラウドトゥルース以来、3度目のフロリダ・ダービー勝利だった。前の2頭と比較して、ヴィーチ調教師はブライアンズタイムのことを次のように評している。「小柄で、控えめな感じの馬だよ。馬体が大きくてがっしりした、アメリカでは主流のタイプだったアリダーやプラウドトゥルースと比べると、むしろヨーロッパの馬のような雰囲気だね。それでも勝負根性は大したものだ。もちろん、ケンタッキーダービーでも期待したい」






 その調教師の期待を背負って、ブライアンズタイムは1ヵ月後のジムビームS(9ハロン)に出走、1着キングスポストからクビ差、ハナ差という僅差の3着を守った。不良馬場で上位はほとんどが前残りの展開となった中、最後方から唯一追い込んできたのがブライアンズタイムだったのだ。負けたとはいえ、今後に望みをつなぐレース振りだったといえるだろう。
 その3週間後、ブライアンズタイムは東海岸で最も重要なケンタッキーダービーの前哨戦、GⅠウッドメモリアルS(9ハロン)に出走するため、ニューヨークのアケダクト競馬場に姿を現した。ところが、当日は4倍の1番人気に推されたブライアンズタイムだったが、いつものように最後方につけた後、勝負どころから追い込みを開始するも、思ったほどの伸びがない。結局、4着のテハノからさらに3馬身離された4着と、期待を裏切る形となった。騎乗したアンヘル・コルデロJr騎手は、「馬は一生懸命走っている。ただ、今回は前が止まらなかったから…」と、馬をかばった。
 この敗戦によって評価を下げてしまったブライアンズタイムは、5月7日、チャーチルダウンズ競馬場で迎えた3冠レースの初戦、ケンタッキーダービーに8.3倍の6番人気で出走した。このレースで人気を集めていたのが、何と出走17頭中唯一の牝馬、ウィニングカラーズである。西海岸でサンタアニタオークス、サンタアニタダービーとGⅠを2勝した芦毛の女傑は一時は1番人気に推されたが、発走直前になってウッドメモリアルの覇者、プライヴェイトタームズがほんのわずかの差で1番人気となった。






 ところが、レースはあっけないほど一方的な展開となった。ゲイリー・スティーブンスが騎乗するウィニングカラーズはそのスピードにものを言わせてスタート直後から先頭に立つ。予想された展開とはいえ、快速のウィニングカラーズに競りかけようと思えば、自分の馬が逆につぶれかねない。3番人気のフォーティーナイナーに騎乗していたパット・デイはレース後に、「彼女のペースについていくのは自殺行為だと思った。あのスピードに最初から最後まで対抗しきれる馬が、今日のメンバーの中にいたとは思えない」とコメントしているほどだ。ところがこの稀代の名牝にとってはこれこそマイペースだったのである。彼女は悠然と他馬とのリードを保ったまま直線に入る。最後はさすがに少し疲れてフォーティーナイナーに猛追されたが、これをクビ差凌ぎきって、リグレット、ジェニュインリスク以来、史上3頭目の牝馬によるケンタッキーダービー制覇を果たしたのだ。






 ブライアンズタイムはといえば、道中は逃げるウィニングカラーズから20馬身も離れた最後方を追走。残り400㍍でコルデロ騎手が追い出すと、そこから例の鋭い末脚を繰り出して一気に前方との差を詰めていった。あまりの手応えのよさに、鞍上は一瞬、先頭を捕えきれると確信したほどだった。しかし、最終コーナー付近でバテて下がってきた先行馬をよけるため、ブライアンズタイムは大きく外を回らされる羽目となり、そこで勢いを失って最後は約4馬身差の6着に敗れた。歴史的な牝馬優勝の熱狂に沸く競馬場で、この小柄な黒鹿毛が見せた驚異的な末脚に、一体どれほどの人が気付いていただろう。






 この年、ダービーを盛り上げた主役達は揃って2冠目のプリークネスSに出走。ダービー1、2着のウィニングカラーズとフォーティーナイナーがここでも1、2番人気を占め、ブライアンズタイムは単勝7倍という評価に留まった。前回ウィニングカラーズの堂々たる逃げ切りにしてやられたフォーティーナイナーは、今回はこの牝馬を徹底マークする作戦に出る。スタート直後から2頭は激しい先頭争いを繰り広げ、何度も馬体を接触させながらも、互いに一歩も譲らない。その2頭の直後に、エディ・デラフーセイ騎乗のセクレタリアト産駒リズンスターの大きな馬体がぴたりとつけた。ブライアンズタイムは例によって道中は最後方で待機するが、前回届かなかった教訓を生かし、コルデロ騎手は先頭の2頭から10馬身くらいの間隔を保ってレースを進めていた。残り3ハロンで、3番手につけていたリズンスターが仕掛ける。馬場の悪い内ラチ沿いを避けて通っていた先の2頭の内側にぽっかりとあいた空間に飛び込むと、一気に突き抜けたのである。ここで勝負あったかと思われたが、一度は抜かれたウィニングカラーズが類稀な勝負根性でフォーティーナイナーとのバトルを制し、再びリズンスターに襲い掛かろうとしていた。






 そのときである。このレースからブリンカーを装着したブライアンズタイムが、次元の違う脚でウィニングカラーズの外を一気に抜き去った。コルデロは3コーナーあたりからじわりと位置を上げていった後、直線入り口でリズンスターが先頭に立つのを見てスパートをかけたのである。ブライアンズタイムは稲妻のような末脚で迫ったが、粘るリズンスターを競り落とすことができず、1と1/4馬身差の2着に終わった。






 しかし、このレースでの豪快な追い込みはファンの間に強烈な印象を残したようである。






 続く3冠目のベルモントSでは、ブライアンズタイムはついに、リズンスターと1番人気を争うまでに評価を上げる。父ロベルト、母父グロースタークといういかにもステイヤーを思わせる血統が、12ハロンという3冠レースで最も長距離のベルモントS向きと解釈されたのだろう。また、ベルモントパーク競馬場はコースが大きく直線距離が長いのも、追い込み脚質のブライアンズタイムにとって好材料だった。






 出走6頭中、ハナを切ったのはやはりウィニングカラーズだった。しかし、デラフーセイ騎乗のリズンスターがその後ろに張り付くと、そのまま第3コーナーを過ぎた時点で、芦毛の牝馬をたやすく抜き去っていく。そこからはこのセクレタリアト産駒の一人旅となった。直線でさらに後続を突き放すリズンスターをブライアンズタイムは必死に追いかけたが、途中でスタミナが切れたのか勢いが止まってしまう。最後は最低人気のキングポストにまで抜かれ、3着を確保するのがやっとだった。一方のリズンスターは後続に14馬身と3/4という驚異的な差をつけ、2分26秒4というレース史上2番目のタイムで2冠を達成した。






 1988年7月20日。数々の名馬を世界に送り出してきたダービーダン・ファームの創設者であるジョン・ガルブレイスがこの世を去った。享年、90歳。
 それから2週間も経たない8月2日、そのガルブレイスの生産馬で、生まれ故郷のダービーダンで種牡馬生活を送っていたロベルトも死亡した。享年、19歳。
 その年の3冠レースにすべて出走し、6着、2着、3着の成績を残したブライアンズタイムは、事実上の生産者と自らの父を相次いで亡くしたことになる。人語を解さないサラブレッドには知りようもなかったろうが、周囲の人々の雰囲気は察したのではないだろうか。ブライアンズタイムは比較的穏やかな気性の、賢い馬だったということだから。
 極端な追い込み脚質のブライアンズタイムのような馬は、どうしてもレースの展開に左右される。前が開かなかったり、他馬に進路をカットされたりという不利も受けやすい。そのため、脚を余して終わったり、追撃が間に合わなかったりという不本意な結果に泣くことも多い。そのかわり、展開がはまれば実に豪快な勝ちっぷりを見せてくれる。






 8月7日のGⅡジムダンディS(9ハロン)でのブライアンズタイムがまさにそれだった。定位置の最後方につけたブライアンズタイムは、3コーナーでは他馬と接触、さらに直線では一瞬前が塞がる不利もあったが、終盤には目の覚めるような豪脚を披露し、2着イブニングクリスに5馬身半もの差をつけて、フロリダダービー以来の勝利をものにしたのである。天国のガルブレイスとロベルトがちょっぴりその背を押したのかもしれない。
 ブライアンズタイムはこの後8月20日に、GⅠトラヴァースS(10ハロン)、別名「真夏のダービー」に出走する。北米では3冠レースに次ぐ重要なレースとされ、事実上の3歳最強馬決定戦とまで言われている。前走での鮮やかな勝利の印象から、ブライアンズタイムはフォーティーナイナー、シーキングザゴールドという2頭のミスタープロスペクター産駒を抑えて1番人気に推された。






 他にこれといった逃げ馬がいなかったため、レースは比較的スローペースで流れる。最初はシーキングザゴールドがややリードしていたが、その後フォーティーナイナーが単騎抜け出した。直線入り口で内ラチ沿いにシーキングザゴールドが差を詰め、後方に待機していたブライアンズタイムも追撃を開始する。ここからがレース本番だった。しかし、マイペースで逃げていた前2頭の脚は一向に止まる気配がない。結局フォーティーナイナーがシーキングザゴールドとの勝負をハナ差制し、ブライアンズタイムはそこから3/4馬身差の3着が精一杯だった。「前の2頭は余力十分で、追いついたと思った瞬間、再度引き離されてしまった」と、騎乗したアンヘル・コルデロJr騎手は語っている。






 ブライアンズタイムはこの後も休むことなく、一線級の戦いに明け暮れる。9月17日にはベルモントパーク競馬場でGⅠウッドワードH(9ハロン)に出走。この年は、古馬で最強と言われたアリシバと3歳戦線の主役フォーティーナイナーの対決で盛り上がり、軍配はアリシバに上がったがフォーティーナイナーは3歳最強の名に恥じないレースで2着を死守した。ブライアンズタイムは見せ場も作れずに後方のまま8頭立ての最下位に敗れたが、どうやら本気を出していなかったようで、レース後も少しも疲れた様子を見せていなかった。
 そのため、ジョン・ヴィーチ調教師はわずか6日後にニュージャージー州のメドウランズ競馬場で行われたGⅠペガサスH(9ハロン)に出走させることを決め、周囲を驚かせる。実績では他馬より一枚上のブライアンズタイムは、121ポンドのトップハンデを課された。人気の上でも断然の本命である。






 ブライアンズタイムはいつもの後方待機策を取り、残り3ハロンの地点でもまだ10番手ほどの位置取り。直線入り口では一瞬前が塞がる不利があったものの、コルデロ騎手は上手く外に持ち出した。そこからコルデロが合図を送ると、照明に浮かび上がる夕刻のメドウランズ競馬場の直線を黒鹿毛の馬体が切り裂いた。小柄な身体をバネのように弾ませながら、ブライアンズタイムは先頭との間にあった7馬身半の差を残り3ハロンで一気に詰めると、そのまま2着フェスティブに1と3/4馬身差をつけて、豪快に勝利を決めたのである。
 コルデロはその走りをフットボールプレイヤーにたとえた。この日の自身の騎乗については、「向こう正面ではなるべく内ラチ沿いにつけて、終盤に向けて脚をためるように心がけた」と説明している。ヴィーチは、「前走のウッドワードを除けば、本当にいつも堅実に走る馬だよ。調教でもよく走るしね」と、いつも真面目な愛馬を称えた。そして、「前走の惨敗の雪辱を果たすためにも、もう一度古馬に挑戦させたい」と語った。






 しかし、結局それは実現しなかった。シーズンを通してタフに走り抜いたブライアンズタイムは、このレースを最後に翌年に向けて休養に入ったのだ。






 それでも陣営にとっては実りの多い秋となった。このペガサスHの翌日、隣のニューヨーク州のベルモントパーク競馬場で、やはりヴィーチの調教馬が栄冠を手にしたのだ。馬の名はサンシャインフォーエヴァー。父はブライアンズタイムと同じロベルト。母アウトワードサンシャインは、ブライアンズタイムの母ケリーズデイの全姉。つまり、ブライアンズタイムとほとんど同じ血統を持つ同い年の従兄弟である。もちろん、ガルブレイスの生産馬だった。ブライアンズタイムと違って芝路線を進んだサンシャインフォーエヴァーは、この日のGⅠマンノウォーSで後にJCを制するペイザバトラーを下して優勝。さらに10月9日にはターフクラシック、23日にはバドワイザー・インターナショナルと、芝のGⅠを一気に3連勝したのである。そしてBCターフでも、グレートコミュニケイターから半馬身差の2着と好走し、最終的にはこの年の米国芝チャンピオンの座を獲得したのだ。






 ブライアンズタイムは、自分と入れ替わるようなタイミングで本格化し、一気にスポットライトを浴びるようになった同厩の従兄弟の影にすっかり隠れてしまった。5歳になっても現役を続けたものの、初戦のGⅢベンアリH(9ハロン)で、いきなり3着とつまずく。続いてGⅠピムリコスペシャルH(9.5ハロン)では、ブラッシングジョンの5着。その後もナッソーカウンティH、GⅠサバーバンHで3着、6着と届かないレースが続く。この後は芝に転向したものの、GⅠソードダンサーH(12ハロン)はさすがに距離が長すぎて5着、気を取り直して挑んだGⅠバーナードバルークH(9ハロン)でも、重馬場に末脚を殺されたか、3着に終わった。






 芝レースに挑戦させたのは、この年、種牡馬としてブライアンズタイムを購入した早田光一郎氏がJCに出走させてから日本で種牡馬入りさせようと考えていたからである。しかし結局、脚部不安のためJC出走は夢に終った。そもそも早田氏はサンシャインフォーエヴァーを売ってもらうようダービーダン・ファームと交渉したのだがまとまらず、代わりによく似た配合のブライアンズタイムを買うことにしたのは有名な話だ。






 「代用品」のはずだったそのブライアンズタイムが、種牡馬として日本で大ブレイクしたのはご存知のとおりだ。最後まで諦めない勝負根性や、全身を使った首の低いフォームなどは、産駒にもよく受け継がれている。そしてこれからも、どんなときも律儀に追い込んできた「競走馬魂」を、日本の数多くの産駒に引き継いでくれるに違いない。