天正3(1575)年9月『駿河記』は、徳川家康の田中城攻めの際に砦(とりで)が築かれた「二つ山」として正泉寺背後の本宮山と北の五郎山(現在は消滅)を位置付けている。五郎山東丘陵の岩城山には、田中城に向けて三段の曲輪と土塁が残存し、往時を伝えている。


この岩城山は二つ山北砦跡として、Googleマップにも登録されている。【静岡県藤枝市青葉町1丁目17−11】

本曲輪


岩城山古墳群跡と同一なのだろうか?
2の曲輪


3の曲輪


連郭式の砦跡である。

Googleマップ上で、二つ山南砦に比定されている正泉寺の北側にある熊野権現であるが、登ってみた所、遺構跡は、ないようだ。


ここで、上記の【駿河記】に話を戻すと、「二つ山砦」は本宮山と書かれているが伝聞間違いで、五郎山(消滅済み)の西砦跡が本来もう一つの「二つ山砦跡」ではないかと個人的には思います。

(注)駿河記 三七巻 桑原藤泰編

 文政元年に成立。

島田宿の素封家桑原藤泰の編による駿河国の地誌。文化九年駿府町奉行の服部貞勝は駿河国地誌の編纂を企図し、与力佐藤吉十郎をその掛に充て、藤泰は志太郡の撰者を命じられた。地誌編纂は服部が松前奉行に転出し、また編纂を委嘱されていた六人のうち四人が途中で死亡したために実現しなかった。藤泰はこの計画より前の文化六年から地誌の編纂を企てて志太・益頭・有渡三郡を巡村、文化一〇年・同一二年に安倍郡を巡村し、文政元年には庵原・富士・駿東の三郡を回って草稿を完成させた。費用が自腹のため、出版することができなかった。