偉大なる皮肉・平和台事件編 | Short+α

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○昭和25(1950)年、日本のプロ野球がセリーグとパリーグに分裂してはじめての日本一を迎えたのは、パリーグの毎日オリオンズ。その名の通り、毎日新聞を親会社とする球団である。

 

○その資金力に加え、球団結成時の選手集めに成功したこともあってパリーグの王者として君臨しており、パリーグ結成2年目こそ優勝を逃したものの、湯浅禎夫総監督のもと、3年目となる昭和27(1952)年は王者奪還を狙っていた。

 

○この頃の毎日オリオンズは特殊な体制であった。毎日オリオンズ球団結成時のエースである若林忠志が選手兼任監督を務め、その上に湯浅禎夫総監督が君臨するという体制であった。総監督は現在のプロ野球でほとんど見られない役職であるが、事実上の監督としてベンチで指揮を執ると同時に、GMとして球団経営にもかかわるという、かなり強力な権限を持っていた。

 

○つまり、監督と総監督の二名体制であったのであるが、監督である若林忠志は選手兼任監督であると同時に投手コーチのような役割を引き受けていることから、この体制こそが毎日オリオンズを強豪とする秘訣であると他球団から見られることもあった。

 

○ところが、パリーグ結成から続いていた毎日オリオンズの強豪としての歴史は、昭和27(1952)年の今日、突然終わった。

 

○その出来事こそ、「平和台事件」と呼ばれる騒動である。

 

○昭和27(1952)年7月16日(水)、福岡市の平和台球場での西鉄ライオンズ対毎日オリオンズの試合は15時試合開始の予定であったが、雨天により試合開始が遅れて16時55分試合開始となった。

 

○福岡市は日本の西端に近い都市である。そのため、東京ではもう夜になっている時刻でも福岡市ではまだ夕刻ということは普通である。実際、この日の福岡市の日没時刻は19時29分である。

 

○そして、この時点の平和台球場にはナイター設備がない。つまり、試合途中であっても日没を迎えると、試合を途中で打ち切るか、ノーゲームとして試合が無かったこととなる。

 

○だからこそ、水曜日という平日で、かつ7月という夏であっても、西鉄ライオンズは15時試合開始を予定していた。この試合開始時刻であれば余程の長丁場とならない限り日没までに試合が終わる。

 

○ところが、ただでさえ雨天で試合開始時刻が遅くなったことに加え、2回表に15分、3回ウラには1時間の試合中断があった。

 

○球場を埋め尽くす西鉄ファンは、降りしきる雨に悩んだものの、西鉄ライオンズが優勢で進んでいる試合展開には満足していた。

 

○ところが、4回ウラから毎日オリオンズは目に見えて試合を遅らせようとした。この時点で5対4と西鉄ライオンズがリードしている。このまま5回表を終えたなら試合成立となって毎日オリオンズは敗れることとなる。その前に日没を迎えたならこの試合は無かったこととなり、負け試合も無かったこととなる。

 

○毎日オリオンズの選手達の目に余る遅延行為に対する西鉄ライオンズファンの苛立ちは、5回表に毎日オリオンズの選手達が守備に着かず、湯浅禎夫総監督が審判団に「これ以上ゲームはできない」を申告し、主審浜崎忠治がノーゲームを宣言したことで暴動へと発展した。

 

○勝てたはずの試合が無かったことになってしまったことに怒りを隠せない西鉄ライオンズファンはグラウンドに乱入し、当初は審判団に詰めかけたファン達であったが、審判の一人が「悪いのはあっち」と毎日オリオンズのベンチを指さしたことで、暴徒と化したファン達は毎日オリオンズの選手達にめがけて襲撃を掛けた。

 

○暴徒と化したファン達を鎮めるために、西鉄ライオンズのエース野口正明と、四番打者の大下弘が毎日オリオンズの選手達を守るべく立ちはだかったが、毎日オリオンズの四番打者である別当薫が身を守るためにバットを振り回したことでかえって騒動は悪化した。

 

○遅延行為を主導した湯浅禎夫総監督は平和台球場の放送席に逃げ込んで、暴徒と化したファンを鎮めるためのスピーチをしたが、自分に責任はなく悪いのは全て選手達であるとしたことで鎮静化どころか状況はさらに悪化した。

 

○その結果、福岡県警だけではなく隣県からも応援を頼んで3000人規模の機動隊が平和台球場に集結して毎日オリオンズ関係者を暴徒から守ることとなったが、騒動は野球場の中だけでなく球場の外、さらには毎日オリオンズ関係者の宿舎を取り囲むまでに至った。

 

○宿舎を取り囲む騒動は西鉄球団社長の西亦次郎が説得に当たり、毎日オリオンズのキャプテンである大館勲が土下座をすることでどうにか鎮静化したが、暴動の影響はそれだけでは留まらなかった。

 

○事件が事件であるから、当然ながらメディアはこのことを書き記す。問題はこの事件に関する毎日新聞の記事である。毎日オリオンズの遅延行為を全く記さず、西鉄ライオンズのファンが一方的に暴れたという論調であったことから、毎日新聞の抗議の電話が殺到しただけでなく、毎日新聞に対する不買運動にまで発展した。

 

○毎日新聞に対する世間の風当たりは想定をはるかに超えるものであり、それまで九州地区で圧倒的シェアを占めていた毎日新聞の販売部数が目に見えて減少していった。

 

○この結果を受けて、毎日新聞として何かしらの責任を取らせなければならないとして、湯浅禎夫総監督は懲戒免職、監督若林忠志は二軍監督に異動となり、別当薫が選手兼任監督として毎日オリオンズを指揮することとなった。

 

○7月16日の試合はノーゲームとなったため再試合となる。その再試合は9月7日にダブルヘッダー、すなわち一日で二試合を開催することとなったのであるが、9月7日の試合の毎日オリオンズは明らかにおかしかった。

 

○百歩譲って本来であれば負け試合であったのを無理にノーゲームとしたことへの穴埋めとして一試合の負けを受け入れることは理解できなくもなかったが、二試合とも負けたのである。

 

○毎日オリオンズにとってはこの連敗があまりにも痛かった。この年の毎日オリオンズは最終的に二位となったのであるが、仮にこの日の二試合とも勝利していたら毎日オリオンズが優勝していたのである。

 

○結局、平和台事件を最後に湯浅禎夫はプロ野球から追放同然となり、毎日新聞はオリオンズの経営から徐々に手を引くようになり、ついに毎日オリオンズの優勝は二度と訪れることは無かったのである。

 

○オリオンズの次の優勝は昭和35(1960)年。毎日新聞だけでは球団経営ができなくなり、映画会社の大映と協力して大毎オリオンズとなった後の優勝であった。

 

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