偉大なる皮肉・稲尾和久伝説編 | Short+α

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○昭和12(1937)年の今日、大分県別府市の漁師の家庭で一人の男児が誕生した。7人きょうだいの末っ子として生まれた男児は和久と名付けられた。後の大投手、稲尾和久である。

 

○両親は和久に漁師を継がせることを考え、国民学校1年、現在の小学校1年の頃から伝馬船に載せられ櫓を漕ぐ日々を過ごした。この頃の和久少年も自分は将来漁師になるものと考えていた。

 

○その思いが揺らぎ始めるのは小学校6年のとき。地元の別府星野組が都市対抗野球で優勝し別府市内をパレードした。このときはじめて野球選手への憧れが芽生え、中学に進学すると野球部に入った。

 

○中学時代は捕手であった和久少年は、プロ野球選手も輩出した地元の別府緑丘高校に進学。ただし、野球の才能を見込まれてのスポーツ推薦ではなく一般入試であり、野球を期待されての進学ではない。

 

○高校進学後も野球部に所属した稲尾少年は中学時代と同じく捕手を希望していたが、1年生の秋に投手へのコンバートを命じられる。高校2年の夏からはエースで4番をつとめるようになったが、県予選敗退が続いて甲子園出場は果たせなかった。

 

○かといってプロ野球のスカウトが目を付けなかったわけではない。特に当時のパリーグの絶対王者であった南海ホークスは早くから稲尾に目を付けており、高校2年の段階で既に南海の鶴岡監督自身が接触してきたほどである。

 

○この南海の動きに動揺したのが、地元九州の西鉄ライオンズである。毎年のように南海に翻弄され続けてきた西鉄は、地元九州から南海に引き抜かれるぐらいならば西鉄に入団させるべきと考えて稲尾と接触。別府緑丘高校出身の河村投手が在籍していることや、遠い大阪に行かせるより地元に行かせるべきと考えた父の後押しもあり、稲尾少年は南海ではなく西鉄に入団することを選んだ。

 

○ただ、このときの西鉄は稲尾を積極的に入団させようと考えていたわけではない。南海に持って行かれるぐらいなら入団させてしまえという態度であり、稲尾自身も自分があまり期待されての入団でないことを理解していた。このときは、まずは3年間はプロとしてやって、ダメだったら別府に戻って漁師を継ぐと考えていた。

 

○稲尾が期待されていなかったのは1年目の春のキャンプから明白であった。稲尾に命じられたのはバッティングピッチャーであり、稲尾自身の練習ではなく、西鉄打線の練習相手という立場であった。

 

○ところがここで、西鉄打線の中心を担う豊田選手や中西選手から稲尾の投手としての能力の高さが三原監督に伝えられる。オープン戦で結果を残して開幕一軍の座を掴むと、開幕からリリーフで結果を出す。昭和31(1956)年5月17日のプロ入り初先発では勝ち星を挙げられなかったが、この後は先発として登板を重ね、終わってみれば21勝6敗の結果を残し、最優秀防御率のタイトルも獲得すると同時に新人王に選ばれた。なお、この年に記録した防御率1.06は、現在も破られていないパリーグ記録である。

 

○西鉄も昭和31(1956)年度のパリーグを制覇して日本シリーズに進み、三原監督の因縁の相手である巨人と対戦。このときの西鉄は4勝2敗で巨人を倒したのだが、稲尾は6試合の全てに登板して3勝を記録。小学生時代は一観客として眺めていた優勝パレードを、この年はパレードの車に乗る選手として体験することとなった。

 

○3年やってダメだったら漁師を継ぐとしていた和久少年は一年目から別府の生んだスーパースターとなって歓迎されるようになり、自宅への帰省がニュースとして扱われるまでになっていた。

 

○プロ野球の世界には二年目のジンクスというものがある。一年目から活躍した選手も二年目にはダメになるというものである。ところが稲尾投手は二年目のジンクスと無縁どころか、前年を上回る35勝を記録して最多勝のタイトルを獲得しただけでなく、二年連像の最優秀防御率、さらに最高勝率のタイトルも記録して史上最年少のMVPに選ばれた。

 

○西鉄も二年連続でパリーグを制覇し前年に続いて巨人と日本シリーズで対戦。この年は西鉄が4勝1引き分けと巨人を圧倒し、余裕を見せての日本一であった。稲尾も2勝を記録して、パリーグの全球団だけでなく巨人からも打倒稲尾の研究が取り組まれるようになった。

 

○入団三年目の昭和33(1958)年、二年連続最多勝、三年連続最優秀防御率を記録し、西鉄をパリーグ三連覇に導くと同時に、パリーグ初の二年連像MVPに輝いた。

 

○そしてこの昭和33(1958)年こそ、稲尾和久伝説のピークであった。

 

○三年連続で巨人との対戦となった日本シリーズ。巨人は打倒稲尾に球団を挙げて取り組み、後楽園球場での第1戦で稲尾攻略に成功して勝利を掴むと、第2戦は稲尾登板の機会すら与えず連勝、舞台を福岡に移しての第3戦では再び稲尾攻略に成功し、巨人の三連勝となった。

 

○もう後がなくなった西鉄は諦めムードが漂っていた。監督三原も、どうやって負けたら西鉄ファンは納得するかをを考えるまでになっていた。

 

○その答えが、稲尾で負ける、であった。エース稲尾を登板させて負けたならば西鉄ファンも納得するだろうという算段である。

 

○雨で1日順延して迎えた第4戦。2回表終わって3対0と巨人にリードを許すが、ここではじめて西鉄は巨人がどのように稲尾を攻略したかを見破った。稲尾ではなくキャッチャーからのサインが見破られていたのだ。

 

○西鉄はキャッチャーを正捕手の和田からベテランの日比野に交替。日比野は稲尾に対し、サインを一応は送るがそれは無意味であるとし、膝をめがけて投げろと指示。それがどんなボールであろうと全部キャッチすると告げると、稲尾のピッチングは蘇って完投し、西鉄打線も逆転に成功して、まずは1勝を手にした。

 

○続く第5戦の先発は稲尾ではなく、3回ウラを終えて3対0と巨人にリードを許している。このときは西鉄ナインからも、そして球場に詰めかけた西鉄ファンからも諦めモードが漂っていたが、4回から稲尾がリリーフで登板すると雰囲気は一変。7回ウラに2点を返すと、9回ウラ2アウトから3対3の同点に追いつく。

 

○そして迎えた延長10回ウラ。何と、打席に立った投手稲尾がバットをフルスイングすると打球はレフトスタンドへ飛んでいき、日本シリーズ史上初のサヨナラホームランとなった。

 

○稲尾の劇的な勝利に西鉄ファンから「神様、仏様、稲尾様」のフレーズが飛び出し、このフレーズが新聞紙面を飾ると一躍流行語となる。

 

○西鉄ナインはこのフレーズで勢いを取り戻し、福岡を発って後楽園球場に移って迎えた第6戦、これで5試合目の登板となる稲尾が完封勝利を挙げて3勝3敗のタイに戻す。

 

○そして、稲尾和久伝説の集大成となる昭和33(1958)年10月21日。日本シリーズ第7戦にも登板した稲尾が完投勝利を記録し、3連敗からの4連勝というアメリカ大リーグでも記録したことのない大逆転、しかも4連勝を稲尾の4連投で記録するという偉業を達成し、リーグとシリーズの双方でMVPを手にした。

 

○……、こんな選手が今のライオンズにいればなぁ……

 

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